「潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を」(柿本人麻呂)
愛知県南東部、東西約50kmに延びる「渥美半島」の西端に位置し、タカ・ヒヨドリなど志摩半島を目指す多くの渡り鳥の中継地でもある『伊良湖岬(いらごみさき)』、そして神域「宮山原始林」を有する丘陵を背にし、太平洋「遠州灘」に面する長さ約1kmの湾曲した砂浜『恋路ヶ浜(こいじがはま)』。
『伊良湖岬』は、志摩半島に向き合い伊勢湾・三河湾、そして太平洋の三方を海に囲まれ、沖を流れる「黒潮」の影響で年平均気温が約16℃と温暖な場所であり、浜辺では海から種子で運ばれた南方起源の海浜植物「ハマゴウ(浜香)」「ネコノシタ(猫の舌)」などを見ることができます。
「古山」「骨山」と続く丘陵の一つで標高約139mの「宮山」の山頂には、848年もしくは875年に創建された「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」を祭神とする「伊良湖神社」がありました。
現在は、1905年(明治38年)の「伊良湖試砲場」用地拡大に伴う集落移転の際にその山頂から遷座(せんざ:神体を他の地に移すこと)されており、かつての「神苑(しんえん:神社の境内)」だった地は、海岸暖地性の常緑樹である「ヤブニッケイ(藪肉桂)」「ヒメユズリハ(姫譲葉)」などの原生林が明治以降もほとんど人の手が加わることなく保たれている面積約3.7haの「宮山原始林」となっています。
「すたか渡る いらごが崎を うたがひて なほきにかくる 山歸りかな」(西行)
秋の『伊良湖岬』では、幾千羽の「タカ(鷹)」や幾百羽の「ヒヨドリ(鵯)」などが、海峡「伊良湖水道」から対岸の志摩半島を目指し大空を飛翔する姿を見ることができ、「宮山原始林」を有する丘陵が渡り鳥たちにとっての重要な休憩地となっています。
そして、南下するマダラチョウ科の一種「アサギマダラ(浅葱斑)」も中継地として飛来し、紀伊半島・四国・九州・南西諸島・沖縄へと移動することが確認されています。
「鷹一つ 見付てうれし いらご崎」(芭蕉)
俳人『松尾芭蕉(まつおばしょう)』(1644-1694)は、冬に『伊良湖岬』を訪れています。
尾張の門人で米問屋を営む俳人「坪井杜国(つぼいとこく)」が、1685年に禁じられていた「空米取引(からまいとりひき:米の先物取引)」をおこなった罪で「尾張国」を追放となり、「渥美半島」の三河国「保美(ほび)」へ隠棲する身となりました。
1687年、江戸「深川」から故郷「伊賀上野」を経て「明石」へと向かう旅の道中で尾張国「鳴海(なるみ)」に訪れていた『松尾芭蕉』は、尾張の門人からそのことを聞き、愛弟子「坪井杜国」を慰めるために次の旅先を変更して俳人「越智越人(おちえつじん)」を伴い「保美」へと向かいます。
無事に「坪井杜国」との再会を果たし旧交を温めた後、『松尾芭蕉』は「熱田神宮」へと再び旅を続けました。
『松尾芭蕉』の死後、この旅の紀行文を俳人「河合乙州(かわいおとくに)」がまとめて、1709年に俳諧紀行『笈の小文(おいのこぶみ)』を刊行しました。
「鳴海」で「坪井杜国」のことを知り「保美」へ向かった情景と、滞在先の「保美」から『伊良湖岬』へ足を延ばしたことを『笈の小文』の中で次のように記しています。
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三川の國保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはをと、まづ越人に消息して、鳴海より後ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊まる。
寒けれど 二人寝る夜ぞ 頼もしき
あま津縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所なり。
冬の日や 馬上に氷る 影法師
保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか万葉集には伊勢の名所の内に撰入られたり。此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と伝は鷹を打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など哥にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、
鷹一つ 見付てうれし いらご崎
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「春さめに ぬれてひろはん いらご崎 恋路ヶ浦の 恋わすれ貝」(林織江)
打ち寄せる波によって幾度となく白く包まれる砂浜『恋路ヶ浜』には、その名の由来の一つとして古より伝わる話があります。
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その昔、許されぬ恋をしたが故に、都から逃れた高貴な男と女がこの地にたどり着き幸せに暮らしました。
しかしながら、それを快く思わない村人たちの目にさいなまれ、男は「裏浜」の庵へ、女は現在の『恋路ヶ浜』である「表浜」の庵へと人目を避けて住むようになります。
二人は手紙をやりとりするだけで逢うこともままならず耐え忍んでいましたが、やがて男と女は慣れない生活から病に罹り、世を怨み、互いの名を叫びながら亡くなりました。
そして、男の念が「ミル貝」に女の念が「女貝」となり、海の中で一緒になったと伝えられています。
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「伊勢の海の清き渚の海に遊び、類無き夕凪夕月夜の風情を身に沁め、物悲しき千鳥の聲に和して、遠き代の物語の中に辿り入らんとならば、三河の伊良湖岬に増したる処は無かるべし。」(柳田國男 著「遊海島記」より)
日本民俗学の開拓者『柳田國男(やなぎたくにお)』(1875-1962)は、「日本人とは何か」という命題の解を終生追い求め、遠野地方に口頭伝承された逸話を文語体で記した「遠野物語」(1910)や「蝸牛(カタツムリ)」の呼び名の方言分布を研究し「方言周圏論」を提唱した「蝸牛考(かぎゅうこう)」(1930)、各地の昔話を収集し分析した「桃太郎の誕生」(1942)、日本民族の南方からの渡来について言及した「海上の道」(1961)などを、世に発表しました。
23才の大学生だった『松岡國男』(柳田國男)は、東京「世田谷」で「渥美半島」出身の浮世絵師「宮川春汀(みやがわしゅんてい)」が語る故郷の素朴な話を聞いたことで、1898年(明治31年)の夏に『伊良湖』へと旅立ち50日間ほど滞在しました。
風が強かった翌日に『恋路ヶ浜』を散策していると思わぬものを見つけたことを、「海上の道」で次のように回想して記しています。
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今でも明らかに記憶するのは、小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四、五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子(やし)の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判(わか)らぬが、ともかくも遥かな波路(なみじ)を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
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南方の海から運ばれて砂浜に漂着した『椰子の実』を見たことが、1961年に刊行した「海上の道」において、我々日本人の祖先が稲作の技術を携えて南海の島々から潮流(海上の道)に乗って渡来したと、「宝貝(タカラガイ)」(子安貝)の交易や「あゆの風」(東風・鮎風)の経験を交えて提唱することに繋がりました。
「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月」(島崎藤村 詩「椰子の実」より)
詩人・小説家『島崎藤村(しまざきとうそん)』(1872-1943)は、詩情にあふれた恋愛や青春を詠った「若菜集」(1897)や人間の苦悩と解放を描き「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と「夏目漱石」が評した長編小説「破戒」(1906)などを、世に発表しました。
『島崎藤村』が1901年(明治34年)に刊行した詩文集「落梅集」に、「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情のうた」と共に叙情詩『椰子の実』が掲載されました。
1936年(昭和11年)に、作曲家「大中寅二(おおなかとらじ)」が叙情詩『椰子の実』に曲をつけたことで、今もなお多くの人に歌い継がれる歌曲『椰子の実』が誕生します。
叙情詩『椰子の実』は、1898年(明治31年)の夏に『柳田國男』が「伊良湖」に滞在した際に砂浜に流れ着いた『椰子の実』の話を、東京に帰ってから『島崎藤村』に語ったことが元になって創作されました。
『柳田國男』の「海上の道」には、『椰子の実』を砂浜で見つけた記述に続けて次のように記しています。
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この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰(もら)いましたよと、自分でも言われたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ
という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々(うんぬん)の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。
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「夏ころも きてもみよかし いらご崎 すずしきなみの よるの月かげ」(糟谷磯丸)
風光明媚な地として万葉の時代より詠まれている『伊良湖岬』、そして哀しい言い伝えがある白く美しい砂浜『恋路ヶ浜』に南方から『椰子の実』が辿り着いたことで新たな物語が生まれました。
今はまだ飛翔する何者の姿を見付けられない青い空、照らす太陽が陰を減らし、新緑の木々草々を薫風が揺らし、ザザッと打ち寄せた波が何者の姿も見えない砂浜を幾度も白く覆う、これらがこの常世の風景に心を打つ妙味を与えています。
砂浜を歩いている最中、打ち寄せる波に揺られる南方から運ばれた『椰子の実』を運良く見付け、手を伸ばしそっと抱えてみたならば、寂しさがこみ上げ遠く離れてしまった故郷や友の元へと帰ろうと思うかもしれません。
あるいは、遙か遠い祖先がこの海の彼方からやって来たことを思い、ふと涙するのかもしれません。
写真・文 / ミゾグチ ジュン