「海に出て 木枯帰る ところなし」(山口誓子)
海風から陸風へ。日の傾きに応じて現れる海辺の光と影。夏の賑わいから、誰もいない冬の砂浜。波音が哀愁を醸し、夕日が当たりきらきらした海をぼんやりと眺める白砂青松・百選の地『鼓ケ浦海岸』は、いつもより透明に波立ちます。
「舟漕いで 海の寒さの 中を行く」(山口誓子)
ロシアを見てきた最初の日本人『大黒屋光太夫』1782年12月、紀州藩の囲米(かこいまい:備蓄した米)を江戸に運ぶために伊勢国白子(現:鈴鹿市)の港を出帆した『神昌丸』の船頭『大黒屋光太夫(31歳)』(だいこくや こうだゆう)と乗組員16名、そして猫一匹は遠州灘で暴風雨にあい遭難。
北に流され7ヶ月あまり漂流し、日付変更線を超えたアリューシャン列島の一つアムチトカ島に漂着。
そこに住む先住民やロシア人とともに極寒の地で4年間過ごし、ロシアへ。
日本への帰国手段を探すとともにロシア人博物学者:キリル・ラクスマンらの尽力で、1791年にロシア女帝『エカチェリーナ2世』に謁見した後にようやく帰国できることになりました。日本へ帰国できたのは光太夫含め3名(1名は帰国時の根室で死亡)で、2名はロシアに在留、1名は遭難後の漂流時に残りの11名はアムチトカ島またはロシア国内で死亡、猫は…?
光太夫たちは江戸に送られ11代将軍『徳川家斉』の御前で取り調べられ、医師でもあり蘭学者の桂川甫周によりその見聞は『漂民御覧之記』としてまとめられました。
その後は、他人とむやみに接触し口外されぬよう小石川の薬草園(江戸)にて軟禁、新たな妻を迎え一男一女をもうけ78歳までの生涯をそこで暮らしました。
多くの知識人との交流があり比較的自由な生活を送れていたようで、ロシアでの多くの出会いと体験・文字および言語・習慣や風俗などの知識は蘭学の発展に寄与したようです。
光太夫たちが故郷に一時的(約40日間)に帰郷できたのが1802年、遭難からおよそ20年後でした。
もう死んだ者として供養塔が建てられており、その帰郷はいかほどの驚きを持って迎えられたのか気になります。
ジョン万次郎が14歳で遭難しアメリカに渡ったのが、1841年。それ以前に遥か遠い異国の地に意図せず渡った者たち。
幾度なく訪れたこの地には、歴史の無慈悲な一幕と多くの俳句、そして伊勢国白子の情緒ある冬の海があります。
写真・文 / ミゾグチ ジュン