深緑の木々に囲まれ、来訪者に対して立ちはだかる大手門跡から真っ直ぐに山腹まで伸びるおよそ180メートル・道幅およそ6メートルの両側を堅固な石塁で築かれた「大手道」。
1871年の『廃藩置県』以後の『小諸城』跡地を旧小諸藩士たちが整備し、1926年に造園家『本多静六)』が提案した『小諸公園設計案』を元に、近代的な都市公園として誕生した『小諸城址 懐古園』。
標高17mの独立丘陵上に築かれた平山城である『丸岡城』。
1573年の『織田信長』による『朝倉家』滅亡後の動乱の中、1574年に浄土真宗本願寺教団の信徒が引き起こした『一向一揆』の拠点となってしまった天台宗の寺院『豊原寺』は、1575年に越前に侵攻した『織田信長』によって、僧坊が建ち並び『豊原三千坊』と言われた『豊原寺』のすべてが焼き払われてしまいます。
江戸時代の城の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの山内の険しい地形を利用した800年余りの歴史を持つ山城『岩村城』。
鎌倉時代に『遠山景朝』が築き、戦国時代に入り織田・武田の両家の抗争が激しくなってきた頃に本格的に山城として構築されていきます。
標高354mの『八幡山』に築かれた山城『郡上八幡城』。
鎌倉時代の頃から郡上一帯は、標高523mの『篠脇山』に築いた『篠脇城』を居城にした『東氏』が治めていました。
標高約495mの『小谷山』一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用し築かれた山城『小谷城』。
『小谷城』の築城は、『淺井亮政』によって1516年とも1523年とも言われており、山頂に築かれた支城・大嶽とその南方に伸びる尾根筋に構えた本丸・大広間など、そして谷筋に構えられた淺井一族と家臣の屋敷などが『小谷山』に築かれました。
敦賀湾の最奥に面し長さ約1.5km・広さ40万平方メートル、アカマツ(約8000本)を優占にクロマツ(約5000本)など約17000本の樹木が生い茂り、『三保の松原(静岡)』・『虹の松原(佐賀)』と並び称される白砂青松の名勝『気比の松原』。
標高432mの『高森山』、木曽川から山頂までの高度差約170mの地に築かれた山城『苗木城』。
鎌倉時代より美濃国恵那郡を中心に『遠山七家』(岩村・明知・苗木・飯羽間・串原・明照・安木)が治め、そのうち苗木の遠山氏が木曽川以北と加茂郡の東部を支配していました。
瀬戸内海西部に広がる海域「伊予灘」に面し、かつては「日本一海に近い駅」と呼ばれた四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である『下灘駅』。
愛媛県の南部、狭い湾が複雑に入り込んだリアス式の海岸線を持つ「宇和海」に面した西海半島の北西部に位置し、ひな壇状に石垣を積んだ集落で現在では「石垣の里」とも呼ばれる『外泊』。
自然石をそのまま積んだ『野面積み』の美しく壮麗な石垣に囲まれ、往時の建物を残さない広々とした空地を持つ『松坂城跡』。
城内の木漏れ日の下を石垣を伝い歩いてみると眼下に繁栄したかつての城下町を眺めることができます。
高遠城址の桜は、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊された城跡の荒廃を嘆いた旧藩士たちが、高遠藩の縁ある馬場の桜を植えたことが始まりとなり、今日では「天下第一の桜」と謳われる桜の名所となりました。