優雅な光沢、しなやかでさらりとした肌触りの「絹」は最も古くからある繊維。古今東西、様々な文化を生み、運び、そして今も愛され続けている「絹」は、人類の宝物と言えるかもしれません。
《絹の歴史》
絹の歴史を紐解けば、紀元前に遡ります。始まりは古代中国。神話伝説の王・黄帝の后が野生の昆虫クワコの繭から糸が繰り出されるのを見て、繭糸が1本の糸であることを知り、絹糸作りに結びついていったと伝えられています。やがてクワコを集めて飼うようになり、クワコを祖先とする蚕が生まれます。蚕を育てて繭を収穫する養蚕はそうして中国で発達していきました。紀元前1200年頃、漢の時代になると西域との貿易が始まります。蚕から生まれた絹は、アジア、ヨーロッパ、中近東、北アフリカを結ぶ東西交易路を通じて、諸国へ伝わっていきました。この交易路は「シルクロード」と呼ばれ、絹や絹織物をはじめとする文物を運び東西文化の交流を担いました。
日本に絹が伝えられたのはいつなのか定かではないようですが、弥生時代の遺跡から絹織物が出土されています。中国の古代文献『魏志倭人伝』には、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代に独自の養蚕・製糸・染色技術のあったことがうかがえる記述が見られるとか。その後、飛鳥時代には中国や朝鮮半島から先進的な技術が渡来、日本各地に広まっていきました。奈良時代には養蚕も盛んになり製糸や織る技術も発展、生糸や絹織物は朝廷に税として納められるほどになったのです。平安時代には更に進化して、日本独自の文様が施された絹織物が作られますが、鎌倉時代の武士が台頭する世になると京でもてはやされた美しい絹織物は贅沢なものとして扱われるようになってしまいました。一方で絹織物に関わる技術は地方に広がり、撚糸技術が中国から伝わった室町時代から安土桃山時代には、西陣織や丹後ちりめんなど、世界に誇る絹織物が作られるようになりました。さらに技術をきわめ上質なものが作られたのは江戸時代のことです。幕府の養蚕奨励もあり、各藩でも研究を重ね、様々な絹織物を生み出しました。江戸末期にもなると製糸の機械化が始まり、明治時代には更に本格化していきます。群馬県富岡の官営製糸場をはじめ、各地で製糸工場が建設されるのと同時に養蚕農家も全国に広がっていきました。安政6年(1859年)、横浜で開港されると海外の貿易商が横浜港に居を構え、盛んに取引が行われるようになります。日本からの輸出品で最も多かったのは生糸と蚕種でした。幕末の頃、ヨーロッパで起こった蚕の病気、清国でのアヘン戦争が原因で、海外では生糸が枯渇していたからでした。明治時代には政府が殖産興業に力を入れ、その中心が生糸の輸出でした。明治42年(1909年)には日本は世界一の生糸輸出国となったのです。以後、昭和の戦争に至るまで製糸産業は日本の近代化を支える基幹事業として多大な貢献を成したのでした。しかし1929年にアメリカから広まった世界恐慌やナイロンなどの化学繊維登場によって、生糸の生産量は減少。終戦後の復興期には再び盛んになるものの、やはり化学繊維の台頭が大きな影響を与え、かつてのような活気は見られなくなっていきました。
そして現代、日本人の心に深く根付いた絹の用と美…日本では古くから受け継がれてきた伝統を大切にしながら、革新的な技術と研究が絹のさらなる可能性を追求し続けています。
《日本の製糸産業》
日本の近代化の礎となった製糸産業。明治時代には官民多くの製糸工場が誕生しました。平成17年にユネスコ世界遺産に登録された「富岡製糸場」もそのひとつ。明治政府が生糸の品質向上をはかり洋式器械製糸技術を導入し官営として建設しました。当時明治政府の大蔵省租税正であった渋沢栄一が富岡製糸場設置主任の1人として任命され、フランス人技師ポール・ブリュナを指導者として招きました。明治5年(1872年)に操業を開始、ヨーロッパから輸入した洋式製糸器械は、湿気の多い日本の風土に適するよう改良が加えられ、それによって日本の製糸技術は著しい成長を遂げることになったのです。富岡製糸場を模範工場として、全国に器械製糸場が創業、明治12年(1879年)までに富岡式の製糸場は北から南まで27を数えたということです。その中で最も多かったのは長野県だったそう。しかし官営富岡製糸場は質の向上に大きく貢献したものの経営的にはうまくいきませんでした。明治26年(1893年)に三井財閥に払い下げ、明治35年(1902年)にはさらに三井から横浜生糸商の原合名に譲渡。昭和14年(1939年)、大恐慌に圧迫され原合名は経営を片倉に譲り、片倉製糸紡績(株)富岡製糸所となり、業界をけん引する存在になりました。昭和62年(1987年)に操業は停止されますが、片倉はこの製糸場を保存し平成17年(2005年)富岡市に建物群を寄付。時代に翻弄されながらも近代日本を支えた製糸場は保存されたがゆえに、ユネスコ世界遺産に登録されることとなったのでした。
《蚕と皇室》
神代の時代、天照大神は口に繭を含んで糸を引いたと記された書があるそうです。日本での御親蚕は5世紀後半の雄略天皇の時代に行われたとか。その後一時途絶えるものの明治時代になってからは国内の蚕糸業を奨励するために皇太后によって再開されました。
歴代の日本の皇后は、皇居内にある紅葉山養蚕所で養蚕を行っています。かつて明治天皇の妃・は富岡製糸場を訪問して工女を励ましたそう。自らも皇室内で蚕を育てられました。こうしたことが養蚕業の奨励に大きく貢献したと言われています。
美智子上皇后が育てられていた蚕種「小石丸」から得られた糸は、正倉院宝物の古代裂の復元に、また鎌倉時代の春日権現験記絵の修理にも用いられました。小石丸の糸はとても細く、古代裂の復元には欠かせないものだそうです。小石丸は「岡谷蚕糸博物館」で見ることができます。
《蚕と神話・伝説・逸話》
古くから日本の各地で行われてきた養蚕は、信仰の対象になったり、様々な逸話を生み出してきました。
たとえば『日本書紀』巻之第一神代の巻には保食神(うけもちのかみ)の眉から蚕が生まれ、天照大神が口の中に含んで糸を紡ぎ、これから養蚕ができるようになったと記されています。
また「金色姫」という絹・蚕の女神にまつわる神話もあります。この蚕神を祀る「蚕影神社」(こかげじんじゃ)は、主に関東甲信越地方で近世から近代にかけて厚い信仰を集めました。全国にある「蚕影神社」(こかげじんじゃ)の総本社は茨城県つくば市に鎮座しています。
製糸王国とまで言われるほど製糸産業が盛んであった長野県の岡谷市にも「蚕玉神」(こだまかみ)という養蚕の神にまつわる民話が伝わっています。
柳田國男著の『遠野物語』に登場する「オシラサマ」も東北に伝わる蚕にまつわる民話です。
西日本では京都の太秦に三本足の鳥居を持つ蚕養神社があり、別名「蚕の社」と呼ばれ蚕や桑を産んだとされている稚産霊神(わかみむすびのかみ)をお祀りしています。この社は京都で最も古いといわれる木嶋神社の境内にあります。
古来より伝わる神話や伝承などをみると、日本人が如何に蚕・養蚕と深く関わってきたのかが窺えます。
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絹の雑学etc.
クレオパトラの愛した紫のシルク
クレオパトラが好んだといわれる紫のシルクは貝殻で紫に染めたもの。貝染めは紀元前16世紀頃、フェニキアで染められたのが始まりだとか。貝からとれる染料は極めて少量で高価なものでした。アレキサンダー大王やローマ皇帝、クレオパトラなどが独占的に愛用しておりロイヤルパープル、クレオパトラパープルなどと呼ばれました。それほど貴重だったものが、ローマに赴くクレオパトラの船の帆布に使われ、それを見たローマの貴族を驚かせたという逸話が残されています。
西方へ伝播した養蚕
絹織物が中国から西方へもたらされた後も、中国は何世紀にもわたり絹の生産法は秘密にしていました。何としても製法を知りたいと考えた西方の皇帝・ユスティアヌス帝はいわゆるスパイとして2人の僧侶を中国に送ります。僧は中をくりぬいて空にした竹の杖に蚕種を隠してコンスタンティノーブル(現イスタンブール)に持ち込んだのでした。その後すぐに絹の生産が始まりました。これがヨーロッパにおける養蚕の始まりだといわれています。
ヨーロッパにおける絹の不思議
ヨーロッパにおいて養蚕が伝わる以前、絹がどうして生まれるのか色々と考察されていました。たとえばローマの詩人ウェルギリウスは植物の葉からとれるものだと思い、ギリシアの歴史家ディオニュソスは花から作られるものと考えていました。その他にも特別な樹木に糸が生えているとか、鳥の羽毛から作られるとか。奇想天外なのはローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスが考えた説。中国の土は非常に柔らかく、水を与えて栽培した土から絹糸を作るというものでした。
シルクロードの名の由来
シルクロードは中国の西北部から地中海東岸、黒海沿岸を結ぶ交通路のことをいいます。絹をはじめとする中国の産物を西方に運び、ヨーロッパや北アフリカなどの産物を中国へ運ぶ交易路でした。「シルクロード」という名は1877年にドイツの地理学者で探検家のフェルディナント・フォン・・リヒトホーフェンが中国の研究を通じて定義づけたそうです。
因みに3月28日はシルクロードの日とされています。これは1900年にスウェーデンの地質学者で探検家のスウェン・ヘディンによって、廃墟となっていたシルクロードの古代遺跡・楼蘭が発見されたことに由来しています。楼蘭はかつてシルクロードのオアシス都市でした。
日本のシルクロード
横浜港が開かれて生糸の輸出が盛んになった江戸時代末期。横浜を目指して日本各地から生糸が運ばれるようになり、地方の生糸が国内では品薄になったそうです。そこで幕府は生糸をはじめとする五品目について、江戸を通った物しか輸出を認めない「五品江戸廻送令」を出しました。産地から横浜への直売を禁止したのです。しかし令は無視され集積地の八王子から横浜へ生糸が運ばれました。この道が「絹の道(シルクロード)」と呼ばれたのです。
文 / 宮崎 ゆかり
*参考文献等
・街道の日本史 伊那・木曾谷と塩の道/高木俊輔編(吉川弘文館)
・岡谷製糸王国記/市川一雄著(鳥影社)
・片倉工業webサイト
・群馬県地域創生部文化振興課webサイト 他