「あるが内に かかる世をしも 見たりけり 人の昔の 猶も恋しき」(東常緑)
標高354mの『八幡山』に築かれた山城『郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)』。
鎌倉時代の頃から郡上一帯は、標高523mの『篠脇山』に築いた『篠脇城(しのわきじょう)』を居城にした『東氏(とうし)』が治めていました。
1540年に越前国の『朝倉孝景(あさくらたかかげ)』が郡上に侵攻し、東氏13代目『東常慶(とうつねよし)』が撃退したが、その際に受けた『篠脇城』の破損が激しかったため修復をせずに、1541年に標高578mの『赤谷山』に『赤谷山城(あかだにやまじょう)』を新たに築きます。
その後、『東氏』はしだいに力を落とし、支流(分派)の『遠藤氏』が勢力を上げていきました。
そのため『東常慶』は家督(かとく:跡目)を娘婿の『遠藤盛数(えんどうもりかず)』に譲ろうとしましたが、素行が悪かった常慶の息子『東常堯(とうつねたか)』が納得せず、遠藤家当主『遠藤胤縁(たねより)』の娘を拉致しようと企てるが、失敗し捕らえられ侮辱を受けたことにより胤縁を恨むようになり、1559年に『赤谷山城』を訪れていた『遠藤胤縁』を殺害します。
弟『遠藤盛数』は兄『遠藤胤縁』の弔い合戦を大義名分として『八幡山』山頂に布陣し、10日間の攻城戦の末に『東常慶』が戦死したことで、約340年の永きにわたって郡上を支配していた『東氏』が滅亡し、以後の『東氏』の家督は『遠藤氏』が継承することになりました。
そして、砦を築いた『八幡山』に新たな拠点として『八幡城(郡上八幡城)』を築くことになります。
現在の『郡上八幡城』の天守は、1871年の廃藩置県とともに廃城になり石垣を残して取り壊されてしまい、1933年に大垣城を参考に木造4層5階建ての天守として再建されました。
幾つもの自然石が積み重なる『野面積み(のづらづみ)』の石垣にしか当時の面影が残っていませんが、この『八幡山』から一望できる郡上一帯を舞台に多くの思惑が絡む物語と戦いがあったことには間違いありません。
「城山の 露と消えゆく 人柱」
1600年の『関ヶ原の戦い』の前哨戦の一つ『八幡城(郡上八幡城)』を巡った戦い『八幡城の合戦』。
この合戦を経た『八幡城』は石垣は崩れ落ち大規模な改修が必要になりました。
急斜面で険しい山頂にあるために城の改修工事は難航しており、たびたび土台となる石垣が崩壊しました。
このことに悩んだ普請奉行(ふしんぶぎょう:土木工事を受け持つ役所の長官)は習俗として『人柱(ひとばしら)』を立てることを決めました。
この時、『神路村(かんじむら)』(現:大和町神路)の百姓・吉兵衛の数え17歳の美しい一人娘『およし』は進んで石垣の石運びに加わっており、その姿は人々の心の支えとなっていました。
そんな『およし』は、自らの身を捧げ『人柱』に立つことを決め、地中に入ったと言われています。
別の説では、城主の命(めい)により泣く泣く『人柱』に立たされ、白の綸子(りんず:絹織物の一種)の振袖に白の献上の帯をしめ、神々しい姿で露と消えていったとも伝わっています。
『およし』は大和村の羽生家の三女だったとも、年齢は17・19・27・28歳だったとの諸説もありますが、『およし』と言う女性が『人柱』として白羽の矢が立てられたのは間違いない事実だったのだと感じてしまいます。
風雪を重ね、いつしか石垣から『およし』の泣き声が聞こえるようになり、哀れに思った麓の『善光寺』の住職が供養を行い、祠が建てられて毎年の8月3日には慰霊祭が欠かさず行われ縁日『およし祭』が開かれています。
また、八幡城本丸跡の石段の下で「オヨシオヨシ」と言って手を叩くと泣くような声がするといわれた話がもととなり『およし物語』がつくられ、天守前には霊を祀る『およし観音』が建てられています。
写真・文 / ミゾグチ ジュン