「みとせへて おりおりさらす 布引の 今日たちそめて いつかきてみん」(西行)
信濃三十三観音霊場の第二十九番札所であり、第45代『聖武(しょうむ)天皇』の勅命によって724年に『行基(ぎょうき)』が創建したと伝わる『布引観音(ぬのびきかんのん)』とも呼ばれる天台宗『布引山釈尊寺(ぬのびきさんしゃくそんじ)』。
1548年に、『布引山釈尊寺』の末寺『楽巌寺(がくがんじ)』の僧である『楽巌寺雅方(まさかた)』が築いた『楽厳寺城』(布引城)が、信濃制圧を目論む『武田晴信(たけだはるのぶ)』(武田信玄)が率いる「武田軍」に攻められ落城しました。
その際の兵火によって『布引山釈尊寺』は焼失してしまいます。
『武田晴信』の弟『武田信繁(のぶしげ)』の三男で「望月家」を継いだ『望月城(もちづきじょう)』の城主『望月信永(のぶなが)』(滋野左衛門佐)が、『布引山釈尊寺』を1556年に再建します。
1582年に「武田氏」が滅び、『徳川家康』配下の元武田方の武将『依田信蕃(よだのぶしげ)』によって『望月昌頼(もちづきまさより)』が守る『望月城』が落城するまで『布引山釈尊寺』は「望月氏」に庇護され、その後は『小諸城(こもろじょう)』に入城した『依田信蕃』によって引き続き庇護されます。
1723年に『布引山釈尊寺』は野火によって再び焼失しますが、『小諸藩』の7代藩主『牧野康明(まきのやすあきら)』が再建し、現存する大半の「伽藍(がらん:寺の建物)」がこの時代になります。
「牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ 」
江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」と言われ、644年に創建された無宗派の寺院で『一光三尊阿弥陀如来』(善光寺如来)を本尊とする信州『善光寺(ぜんこうじ)』との結びつきの強い『布引山釈尊寺』には、「牛に引かれて善光寺参り」と言う逸話がこのように語り継がれています。
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今は昔、信濃国に心が貧しい老婆が住んでいました。
この老婆が軒下で白い布を干していると、どこからともなく一頭の牛が現れて、その布を角に引っかけて走り出しました。
老婆はたいそう腹を立てて、野を越え山を越えて牛の後を追いかけました。
ふと気がつくと善光寺の境内まで来ていました。
老婆は、やっとのことで牛に追いついたかと思ったのもつかの間、日が沈み金堂のあたりで牛はかき消すように姿を消しました。
驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、その場にたたずんでしまいます。
すると、善光寺の仏さまから光明が昼のように老婆を照らしました。
ふと、足下に垂れていた牛のよだれを見ると一文字一文字の文章となっていました。
「うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を」
(牛とのみ 思いすごすな 仏の道に 汝を導く 己の心を)
老婆はたちまち仏様を信じ悟りを求める「菩提の心」を起こして、その夜一晩中、善光寺如来様の前で念仏を唱えました。
もう、布を探そうという心はなく家に帰って、この世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。
たまたま近くの観音堂にお参りをしたところ、あの布が観音様の足下にかかっていました。
牛に見えたのは、この観音様の化身であったのだと気付きますます善光寺への信仰を深め、老婆はめでたく極楽往生を遂げました。
そして、布がかかっていた観音様は「布引観音」と言われています。
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途中まではほぼ同様ですが、結末の異なる次の逸話も伝わっています。
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一夜を金堂にこもり念仏を唱え家に帰った後のある日に、布引山を仰ぎ見ると岩角にあの布が吹き付けられていました。
老婆は何とかして取り戻したいと思いますが、断崖絶壁にためどうすることもできません。
一心不乱に念じているうち、布と共に石と化してしまいました。
この布引山の断崖には、今も白く布の形をした岩肌が眺められます。
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「望月の み牧の駒は 寒からじ 布引く山を 北と思へば」(西行)
秋空の下、「千曲川(ちくまがわ)」を背にし切り立った崖の間を登るかのような参道には、薄く積もった落葉が敷き詰められ、参道を進む途中には小さな水音がする滝を目にし、その近くから染み出てくる水が石段を濡らし危うく足を滑らせます。
傍らには誰かが積み上げた石があり、ときおり置かれている石仏がこの険しい道を行く人々を見守ってくれているようです。
足下に注意しながら馬岩、牛岩、善光寺穴と参道の見所で歩みを止めながらしばらく進み、ふと見上げると床下を長い柱で支え断崖絶壁に迫り出して建てる「懸崖造り(けんがいづくり)」の『観音堂』に気が付きます。
気を引き締め、崖に迫り出す『観音堂』を目指して残りわずかであろう道のりへ歩みを進めます。
『布引山釈尊寺』本堂では一気に眺望が開け、より近づいた『観音堂』と遠くに「浅間山」を発見します。
本堂から更に奥へと進み、大岩をくり抜いたトンネルから『観音堂』へと向かいます。
『観音堂』の朱色の空間から見渡せる哀愁ある景色、散り積もった分だけ裸となった木々、眼下には現在は通ることができなくなった『仁王門』が寂しく佇んでいます。
その景色から隠されるように『観音堂』の岩屋内に安置されている仏殿形厨子『宮殿(くうでん)』は、1258年に建造された鎌倉時代の遺物で国内最古の梅の花を図形化した飾板「梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)」が取り付けられています。
『観音堂宮殿』は岩屋内にあったことで歴史の度重なる火災の難を免れ、今日に至ります。
訪れる旅人が胸躍る、理想の冒険物語の地がここにはありました。
風が冷たい空気を運び、旅人の行く手を阻む険しい道を進み、目には見えない「食欲」・「淫欲」・「睡眠欲」と言った本能的な欲望が盛んな「欲界(よっかい)」から湧いて出る魑魅魍魎を退けることで得られる「御朱印」と「布引の伝承」、ここに訪れることで果てなく続く冒険物語の次なる道が指し示されることでしょう。
写真・文 / ミゾグチ ジュン