「けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも」
標高約495mの『小谷山(おだにやま)』一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用し築かれた山城『小谷城(おだにじょう)』。
『小谷城』の築城は、『淺井亮政(あざいすけまさ)』によって1516年とも1523年とも言われており、山頂に築かれた支城・大嶽(おおづく)とその南方に伸びる尾根筋に構えた本丸・大広間など、そして谷筋に構えられた淺井一族と家臣の屋敷などが『小谷山』に築かれました。
『小谷城』がある北近江の地は琵琶湖の恵みと、いくつもの川が流れるため土壌は豊かで、多くの街道が行き交うのでさまざまな産物が集まってきました。
また、『惣村(そうそん)』(惣)と言う自治組織が根付いており、地縁で結ばれた村落によってその地の恵みを共有し、淺井家は惣村の代表として北近江の地を一つに束ねていました。
淺井家3代当主『淺井長政(あざいながまさ)』は、1573年に妻『お市の方』の兄である『織田信長』と戦った『小谷城の戦い』において、小谷城内の重臣『赤尾清綱(あかおきよつな)』の屋敷で追い詰められた末に自刃します。享年29歳でした。
この戦いの発端は、『淺井長政』が同盟を結んでいた義兄『織田信長』を裏切ったことにあります。
1570年に結んだ「朝倉への不戦の誓い」を『織田信長』が破り、長年に渡り淺井家と同盟を結んでいた朝倉家を織田軍が攻めたことが原因と言われていますが、近年では『織田信長』は『淺井長政』を同盟者としてでなく働きが鈍いと見下し家来の一人であるかのような扱いから、その行為はいずれ北近江の自治を揺るがすと考え、北近江の人々の生活を守るために裏切ったとも言われています。
1574年正月に『織田信長』は討ち取った『淺井長政』と父『淺井久政(あざい ひさまさ)』および『朝倉義景(あさくら よしかげ)』の髑髏(どくろ)に漆を塗ったものを側近の家臣たち『馬廻衆(うままわりしゅう) 』との宴に披露したと『信長公記(しんちょうこうき)』に記されており、『淺井三代記』では髑髏を杯(さかずき)にしたとあります。
『淺井長政』の長男『淺井萬福丸(あざいまんぷくまる)』は、落ち延びていたところを『羽柴秀吉』の軍勢に発見され関ヶ原で串刺しの刑に処せられていました。享年10歳でした。
『淺井長政』には、『茶々(ちゃちゃ)』・『初(はつ)』・『江(ごう)』の3人の娘(淺井三姉妹)がいました。
淺井家滅亡後の長女『茶々』は、『豊臣秀吉』の側室となり後に豊臣家世継ぎの『豊臣秀頼』を産み『淀(よど)の方』と呼ばれるようになりました。1615年に『大坂夏の陣』で大坂城が落城した際に秀頼と共に自害しました。
次女『初』は、従兄弟の『京極高次(きょうごくたかつぐ)』に嫁ぎ、『大坂冬の陣』において豊臣方の使者として徳川方との和議に尽力しました。1633年に京極家の江戸屋敷で死去。
1573年の小谷城落城の年に産まれた三女『江』は、後の徳川二代将軍『徳川秀忠』の妻となり、三代将軍になる長男『徳川家光』を産み、五女『和子(まさこ)』は後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとへ輿入れし、『興子(おきこ)内親王』(明正天皇)を産んだことで、徳川将軍家と天皇家に淺井家の血筋を残すことになりました。1626年に江戸城西の丸で死去。
『豊臣秀頼』の体格は、身長197センチ・体重161キロと伝わっており、戦国時代の平均身長が158センチほどだったと言われています。身長159センチ・体重70キロの『徳川家康』は、二条城で会見した秀頼の巨体とカリスマ性に恐れを抱いて豊臣家を滅ぼす決心をしたと伝えられています。
『茶々』の父『淺井長政』も身長180センチほどの大柄で肥満体、長政の姉『昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)』は身長176センチで体重105キロ、『茶々』自身も身長が168センチあったとも言われています。
『小谷城の戦い』の2年後の1575年に廃城となってから440年以上経った今の『小谷城』には、当時の痕跡は案内図を頼りに確認できるだけで、幾つかの石垣がわずかに残っているだけになります。
しかしながら、その痕跡をたどるだけでもこの地に淺井家一族と家臣たちが住み、そして戦いで多くの兵の声と足音が交錯し、刀を交え、たくさんの血が流れたと思うと今何も残って無いことがかえって凄惨な『淺井家』の滅亡時の姿を映し出してくれるように感じます。
「春風や 麦の中行く 水の音」(直江木導)
1570年に『淺井長政』・『朝倉景健(あさくらかげたけ)』の連合軍と、『織田信長』・『徳川家康』の連合軍が『姉川(あねがわ)』の両岸に布陣し戦った『姉川の戦い』。
淺井軍は8000人・浅倉軍は10000人、対する織田軍は23000人・徳川軍は6000人で、午前5時に始まり午後2時に織田・徳川連合軍が勝利を収め、この戦いを機に淺井家と朝倉家は滅亡への道をたどることになりました。
現在も流れる『姉川』は、当時の情景を感じることができないほど穏やかで、川を挟み両軍あわせ47000人もの兵が対陣していたかと思うと、冷たい水が流れる姉川の周囲の空気が急に熱く感じてきました。
写真・文 / ミゾグチ ジュン