「熊川の名に流れけり清き瀬に さらす真葛のねもころころに」(伴信友)
1587年に、若狭国を豊臣秀吉より与えられ小浜城8万石の城主となった『浅野長政(あさのながまさ)』(1547-1611)は、熊川の地を軍事と交通の重要拠点として認め、1589年に夫役(ふやく:人身の課税)・軍役(ぐんやく:軍事上の負担)や本年貢以外の租税を免除した『諸役免除(しょやくめんじょ)』の判物(はんもつ:花押が付された命令文書)を熊川の地に与えたことで宿場町として発展した『熊川宿(くまがわじゅく)』。
『浅野長政』以降の代々の領主・藩主によって、『熊川宿』は最初40戸ほどの村が200戸を超す宿場町として繁栄し、町奉行所・番所(ばんしょ:荷物や人物改めを行う)・藩の米蔵などが置かれました。
若狭湾からは海を越えて大陸からもたらされた毛皮・絹織物・陶磁器、ゾウやクジャク・グレイハウンド種の洋犬などの南蛮渡来の様々な物品や珍獣などが、若狭からの街道を通り各地に運ばれていきました。
『熊川宿』でも若狭からの海産物を含めた大量の物資を『馬借(ばしゃく:馬で運送した業者)』や人力で40kgから60kgの荷物を背負う『背負(せお)い』に取り次いで京都などへ運び、一日千頭の牛馬が通ったと言われた『熊川宿』は行き交う人々で大いに賑わうようになります。
『若狭街道』は『西国三十三箇所』の巡礼道でもあったので、3月から8月頃まで特に賑わう『熊川宿』では7月の3日間でおよそ1000人の宿泊客がいたと記録が残されており、3つある地区の『上ノ町(かみんちょ)』と『下ノ町(しもんちょ)』の間で宿泊客の争奪が度々起こったため、『中ノ町(なかんちょ)』にある町奉行所が定めを出す事態になるほどでした。
「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(与謝蕪村)
日本海に面した若狭国は『御食国(みけつくに)』と呼ばれ、古来より朝廷に塩や魚・ワカメなどの海産物を『御贄(みにえ:御食)』として納めた国として、平安時代(794-1185)に編纂された法令集『延喜式(えんぎしき)』に記されており、これらが若狭のいくつかの街道を通り京都へと運ばれています。平城京跡や藤原京跡から出土した木簡には多比鮓(鯛すし)や貽貝(いがい:岩に付着する二枚貝)・鰯(いわし)の干物などの荷札が含まれていました。
『鯖街道(さばかいどう)』の名称で呼ばれ親しまれている『若狭街道』ですが、江戸時代には5本の道があり、その中で最も利用されたのが、小浜から『熊川宿』を通り朽木村を抜け、京都の出町へ至る街道筋で「京は遠ても十八里」と言われ、18世紀後半から若狭の海から揚がるたくさんの鯖(さば)が京都へと運ばれるようになりました。
小浜藩の市場の記録『市場仲買文書』には「生鯖塩して担い京に行き仕る」と記され、若狭で朝に捕れた鯖に塩を振り運ぶと、京都に着く頃には程よく身が締まっていて喜ばれたと言われています。
1767年に板屋一助が著した『稚狭考(わかさこう)』には「昔は能登の鯖とて名高かりしに、能登国には鯖すくなくなりて、本国の方へ魚道付たり。」と記され、元来は能登沖の鯖が有名であったが、しだいに捕れなくなっていき、「鯖のおほくとれる時は一人一夜に弐百本釣り、二宿一船に三千、もっとも大漁なり」と、今度は若狭沖でたくさんの鯖が捕れるようになったと言われています。
陶芸家・書道家・料理家・美食家など様々な顔を持つ『北大路魯山人(きたおおじろさんじん)』(1883-1959)は、1980年発行の『魯山人味道』(平野雅章編 )で「さばを語らんとする者は、ともかくも若狭春秋のさばの味を知らねば、さばを論じるわけにはいかない。」と若狭の鯖について表現しています。
1918年に熊川を通らない小浜線【敦賀-小浜】が開通したことによって、『熊川宿』は流通拠点としての宿場の役割をゆっくりと終えることになり戸数は江戸時代の半分ほどとなってしまいました。また現在では住民の高齢化もあって昔からの味を引き継いでいた『鯖寿司』の味が変わってきたと聞いています。
『熊川宿』は風の通りがよかったために、12年に一度の頻度で火事が発生しているため街道沿いの建物は比較的簡素なつくりで建て替えをあまりしなかったため古い町並みとして残り、『熊川宿』で最も古い町家は1809年に建てられた『倉見屋荻野家住宅』になります。
1996年には『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されたことや、『熊川宿』の様子を細かく記録した豊臣時代から藩政末期におよぶ古文書や宿場の月番問屋の記した『御用日記』などが残っていること、1998年に80年間途絶えていた京都から伝わった民謡『てっせん踊り』が復活するなどと、『鯖街道』のかつての重要拠点として賑わいを見せた『熊川宿』が、これからどのような『まちづくり』に取り組んでいくのか楽しみです。
写真・文 / ミゾグチ ジュン