
「初壊平城大極殿并歩廊遷造於仁宮四年於其功纔畢矣用度所費不可勝計至是更造紫香樂宮仍停恭仁宮造作焉」(續日本紀)
滋賀県甲賀市信楽町の北部、三方を山に囲まれた一面の田んぼの下に眠る、奈良時代に造営された幻の都である『紫香楽宮(しがらきのみや)』。
紫香楽宮(信楽宮)は、聖武天皇(在位 724-749)によって742年(天平14年)に恭仁京の離宮として造営され、745年(天平17年)の元日に新京と称した都になりますが、4カ月余りで都は平城京(ならのみやこ, 奈良京)に移されることになります。
その理由は、紫香楽宮の周辺で都を変えたことに不満を持つ者による放火と思われる山火事や、美濃国を中心に三日三夜続いたという天平地震の余震が相次いだからだと言われています。
「運金光明寺大般若經致紫香樂宮比至朱雀門雑樂迎奏官人迎禮引導入宮中奉置安殿請僧二百転讀一日…」(續日本紀)
聖武天皇は、わずか5年の間に都を変える遷都を何度も行っており、740年(天平12年)に平城京から恭仁京へ、そして744年(天平16年)に難波京、次に遷都ではなく新たな都とみなした紫香楽宮、745年(天平17年)に再び平城京へと都を戻しました。
この聖武天皇の迷走と思われる行動は彷徨五年と呼ばれていますが、やみくもな遷都ではなく、唐に倣った複数の都による統治と大仏造立の実現に向けた聖武天皇の揺るぎない決意を示す計画的な行動だったのではないかと考えられています。
仏教を篤く信仰していた聖武天皇は、疫病の大流行や天災による飢饉、権力者による政権闘争などによって不安定になっていた世の中を、大仏(盧舎那仏像)を造立することで救おうとしたと言います。
「粤以天平十五年歳次癸未十月十五日発菩薩大願奉造盧舎那仏金銅像一躯盡國銅而銘象削大山以構堂廣及法界為朕知識…」(續日本紀)
「夏四月乙酉盧舎那大佛像成始開眼是日行幸東大寺天皇親率文武百官…」(續日本紀)
743年(天平15年)に紫香楽宮で大仏造立の詔を発し、その最適な地として紫香楽宮の南方2kmほどの地に甲賀寺を開いて大仏の鋳造を始めました。
しかし、745年(天平17年)に紫香楽宮から平城京へ戻ったことにより聖武天皇の大仏造立の夢は挫折しますが、同年には平城京の金光明寺(東大寺)で大仏造立が引き継がれたことで再開し、752年(天平勝宝4年)に営まれた開眼供養会には譲位し太上天皇(上皇)となっていた聖武天皇の姿がありました。
その際に履いていたと言われる赤く染めた牛革製でつま先が反り上がった靴(衲御礼履)などが、756年(天平勝宝8年)の聖武天皇崩御の後に正倉院に納められて現代にまで伝わっています。

「皇帝御樂香楽宮爲奉造盧舎那佛像始開寺地於是行基法師率弟子等勧誘衆庶」(續日本紀)
紫香楽宮が廃された後、宮殿がどこにあったのかは長らく謎でした。
小高い丘に礎石が露出していた地があったことから、1926年(大正15年)に紫香楽宮跡として国の史跡に指定されますが、その後の調査で東大寺の伽藍に類似した配置を持っていたことから宮殿跡ではなく焼失した寺院の礎石群だったことが分かり、甲賀寺を転用した近江国分寺の跡ではないかと考えられています。
1985年に、信楽町宮町地区の圃場整備で出土していた直径約30cmの三本の柱根(柱の最下端)のうち、樹皮が残っていた柱根の年代測定を行ったところ742年から743年に伐採されたと分かり、紫香楽宮の造営年に一致する年代でした。
その後、宮町地区で度重なる発掘調査が行われた結果、2000年(平成12年)に大規模な宮殿跡が田んぼの下から発見されることになります。
信楽町宮町に広がる田んぼの一角には、いくつもの円柱が並んだコンクリート舗装と隣接したレンガ舗装の史跡公園があります。
コンクリートの舗装地に、紫香楽宮の西脇殿と呼ばれる南北の長さが99.1m以上の掘立柱建物があったとみられ、正殿と東脇殿とで南に開いたコの字型に配置されていたと考えられています。
直径30cmの円柱は柱の位置を示しており、西脇殿のおおよその規模感を知ることができます。
正殿と東脇殿の跡は田んぼの下に埋まっており、コンクリート舗装された西脇殿跡によって他の二棟の位置が確認できるため、三棟がコの字型で配置されている様子を案内板の推定画像を参考に想像できます。
「紫香樂宮西北山火城下男女數千餘人皆趣伐山然後火滅天皇嘉之賜布人一端」(續日本紀)
紫香楽宮では多くの官人が働いていたことから、「御厨」「万病膏」などの文字が書かれた墨書土器、「猪干宍」「止己呂」といった食品名や「造大殿所」「奈加王」などと書かれた7,000点以上もの削り屑を含む木簡、他には「和同開珎」の銭貨などがこれまでに出土しています。
削り屑とは、木簡を再利用するために文字が書かれた面を薄く削ったものですが、削れ残っている一部の文字から内容を推定できることがあると言います。
「阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓」
2008年(平成20年)には、原形を留めず二片に分かれ削り屑と思われていた厚さ約1mmの木簡に、二首の和歌の一部が両面それぞれに書かれていることが分かりました。
そのうちの一首が「阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓」と万葉仮名で書かれていたことが、木簡に残っていた7文字から推定されました。
この一首が万葉集に収められた安積山(あさかやま)の歌でありながら、759年以降に成立したと考えられる万葉集よりも前の744年から745年の間に破棄された木簡に書かれていたことは、万葉集成立の謎の解明に近づく大きな発見となったと言います。
「まだなにはづをだにはかしうつゞけ侍らざめればかひなくなむ」(源氏物語)
「あさか山あさくも人を思はぬになど山のゐのかけはなるらん」(源氏物語)
一方には「奈迩波ツ尓佐久夜己能波奈布由己母理伊麻波々流倍等佐久夜己乃波奈」と書かれていたことが残っていた13文字から推定され、913年頃に成立した古今和歌集に添えられた紀貫之(866?-945?)が執筆した仮名序で紹介されている難波津(なにはつ)の歌で、安積山の歌とともに「このふたうたは 歌のちゝはゝのやうにてぞ ならふ人のはじめにもしける」と触れられ、この二首は歌の父母のようであって手習いする人が初めに習うとしており、紫式部(973頃-1014頃)が平安時代中期に執筆した源氏物語にも登場します。
紫香楽宮跡から出土した木簡に安積山と難波津の歌が組み合わされて書かれていたことは、紀貫之の仮名序における独創だと思われていた二首の組み合わせが、それより150年以上前から存在していたことが明らかになりました。

「奉幣帛於諸陵是時甲賀宮空而無人盗賊充斤火亦未滅仍遣諸司及衛門衛士等令収官物是日行幸平城以中宮院爲御在所舊皇后宮爲宮寺也諸司百官各歸本曹」(續日本紀)
現在は紫香楽宮と一般的には呼ばれていますが、744年(天平16年)に紫香楽宮は甲賀宮に宮名を改めています。
これは、近江国甲賀郡紫香楽村に造営された紫香楽宮が皇都になると決まったことで、紫香楽村より広い範囲を指す甲賀郡を名称にしたとも、大仏を造立する甲賀寺との関係性を意識したとも言われています。
初夏の紫香楽宮跡に心地よく吹き付ける風は、稲の若葉の香りや田んぼの匂いがします。
気持ちよく見渡しているこの景色は紫香楽宮があった時代とそれほど変わっていないと言い、程よい高さの山にぐるっと囲まれた宮殿跡に立っていると、どことなく守られているような気がして落ち着きます。
この地を訪れる人はまだ少ないようで、周囲を見渡す限り人影がないため、聖武天皇が気に入ったのであろう紫香楽の眺望を独り占めしているように感じられます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン


