
「鳳凰鳴矣 于彼高岡 梧桐生矣 于彼朝陽 菶菶萋萋 雝雝喈喈」(詩経)
富山県北西部、萬葉三十六歌仙の一人である「大伴家持」が愛した越中の自然を有し、鋳物の産地として400年以上の歴史を持つ『高岡市(たかおかし)』。
古くは関野ヶ原・志貴野などと呼ばれた荒野や沼地の中の台地に、加賀藩の前田利長(1562-1614)が隠居城として1609年(慶長14年)に高岡城を築城して城下町を開き、地名を中国最古の詩篇「詩経」の一節から「高岡」と名付けました。
それ以前、奈良時代の越中国(富山県にあたる旧国名)には国府が置かれた地でもあり、越中国守として赴任した大伴家持(おおとものやかもち, 718頃-785)によって数多くの歌が詠まれました。
「玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり」(大伴家持「萬葉集 巻17・三九八七」)
富山湾に面し、白波が寄せる雨晴海岸(あまはらしかいがん)からは、3,000m級の山々が連なる立山連峰を背景に海中からそびえ立ち、岩上に榎と松を生やした岩礁の「女岩(おんないわ, めいわ)」を望むことができます。
女岩は、標高274mの二上山(ふたがみやま)の山裾が富山湾に落ち込み、波浪浸食によって削られてできた岩礁群の一つで、その周囲の小さい岩礁との風情が子どもを連れた母のようであったことがその名の由来とされています。
対して「男岩(おとこいわ, おいわ)」は、雨晴海岸から見える女岩の約800m後方に位置する岩上に松を生やした岩礁で、その岩礁の周囲は約150mと女岩の約80mよりも大きく逞しい姿をしています。
1764年(宝暦14年)に編纂された「旧蹟調書」には女岩と男岩の位置と大きさの記述が見られ、その当時には女岩と男岩とそれぞれ呼ばれていたことが分かっています。
1187年(文治3年)、異母兄の源頼朝(1147-1199)と対立した源義経(1159-1189)の一行が山伏姿で奥州平泉へと落ち延びる途中、にわか雨が降ってきたので、弁慶(?-1189)が岩を持ち上げた岩陰で雨宿りをして晴れるのを待ったという言い伝えから、後世にこの地を「雨晴(あまはらし)」と呼ぶようになりました。
雨晴海岸の波打ち際には義経が雨宿りしたと伝わる「義経岩」(義経雨晴岩)があり、人がかがんで出入りできる岩屋の様になっています。
義経岩は、かつて古墳だったが長い年月をかけて波に削られたことで残った棺(ひつぎ)を納める石室である石槨(せっかく)なのではないかと考える説もあり、義経岩近くの二上山の北端の台地には1918年(大正7年)に開墾の際に発見された櫻谷古墳群があり、その付近からは銅鏡(内行花文鏡)・管玉・金環・人骨などが出土しています。
雨晴海岸の一帯は石切場だったこともあり、太田石と呼ばれる石灰成分を含む硬い良質な砂岩が産出されたことから、石仏や石碑などに使われ、高岡城の築城の際には石垣として切り出されており、義経岩と女岩の周辺には石を切り出すときにできるノミなどで彫った矢穴の跡が発見されています。

「振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも」(大伴家持「萬葉集 巻6・九九四」)
奈良時代末期の編纂とされ、現存する日本最古の和歌集である「萬葉集(万葉集)」に収められている歌4,516首のうち、473首が大伴家持の歌となっており、萬葉歌人の中では最も多くの歌が収められています。
萬葉集全20巻の最後を飾るのは大伴家持が赴任先の因幡国(鳥取県東部にあたる旧国名)で詠んだ祝祭の歌であることからも、大伴家持が萬葉集の編纂に大きく関わっていたと考えられています。
746年(天平18年)に29歳の大伴家持が越中国守として越中の国府に赴任してから、751年(天平勝宝3年)に平城京に帰るまでの5年間に詠まれた歌のうち223首が萬葉集に収められています。
越中の国府は現在の高岡市伏木古国府にある1471年(文明3年)に創建された勝興寺(しょうこうじ)を中心とした一帯に平安時代まで置かれていたと伝わっており、大伴家持は越中国府の守(かみ, 国司の長官)として政務全般を執り行っていました。
「馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に」(大伴家持「萬葉集 巻17・三九五四」)
元来、富山湾は激しい海岸浸食が起こりやすい地で、雨晴海岸を南に下った岩崎ノ鼻灯台が立つ岬の岩崎鼻は約300年前までは現在より遥か沖合まで陸地が突き出ており、人が往来する街道が通っていたが、1765年(明和2年)には完全に崩れ去ってしまったと伝えられています。
また、岩崎鼻の近くにあった岩礁の周囲30mの観音岩(タケノコ岩)は波浪浸食により大正時代に消滅してしまったと言います。
雨晴海岸の300年ほど前の姿も現在とは異なり、女岩の外側までは人の往来ができる街道があったとされており、義経岩も波をかぶるような海辺ではなく、今よりもずっと陸側にあったことが分かっています。
さらには、大伴家持の生きていた時代の雨晴海岸付近には大きな集落があったという記録が残っており、いつしか浸食によって集落は海中に没してしまい、跡形もなくなってしまったと言います。
現在でも女岩は波による侵食にさらされているため、浸食防止のため女岩周辺の海底に人工リーフ(潜堤)を設置し、岩の崩落防止にはロックボルトを施工することで自然の成り行きに抗っています。
義経岩も鉄筋を埋め込んだり、亀裂に接着剤を流し入れ強度を高める保全工事が施されています。
今から1280年ほど前の昔へ。
萬葉の時代の初夏のある日、国府から北にある海辺の集落に向かうためにツママ(都万麻)が生い茂る道を抜けて「渋谿(しぶたに)」の地に出ると、深い藍色の海と絶え間ない風波によって削られた大小いくつもの突き出た岩石、波が激しく打ち寄せる荒々しい磯、そして青く澄み渡る空には夏でも雪が残る神々しい立山が浮かび上がるとても美しい景色が一面に広がっています。

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「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら日が沈む」(作詞 葛原しげる, 作曲 室崎琴月「夕日」より)
加賀藩の藩主である前田利長は、異母弟の前田利常(1594-1658)に家督を譲って富山城に隠居していましたが、1609年(慶長14年)の大火(剱の火事)で富山城が焼失したことにより、新たな隠居先として同年に高岡城を築城し、天守のない未完成の状態のまま入城しました。
1614年(慶長19年)に前田利長が53歳で死去し、翌年の1615年(慶長20年 / 元和元年)には江戸幕府が発令した「一国一城令」によって高岡城は廃城となり、城内の建物は撤去されました。
高岡城の廃城後も7つの郭(くるわ, 城の区画)や水濠(水堀)など軍事拠点としての機能を残したまま加賀藩の米蔵や塩蔵・火薬蔵・番所などが設置され、高岡町奉行の管理下に置かれることになります。
1821年(文政4年)の高岡大火によって米蔵などはほぼ全焼しましたが、再建されました。
古地図には、廃城後の高岡城を「古御城(ふるおしろ)」と記しています。
時は移り明治維新後の1870年(明治3年)に金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城跡を民間に払い下げる布達をし、1872年(明治5年)の廃藩置県後に民間への払い下げを決定します。
その決定に異を唱えた高岡を代表する区長の服部嘉十郎(1845-1880)と町民有志による公園指定への請願運動を行ったことで、1875年(明治8年)に高岡城跡は高岡公園に指定され、その後に「高岡古城公園」として開設されました。
1873年(明治6年)に射水神社(いみずじんじゃ)が、二上山の麓から高岡城本丸跡に遷座することが決定したことも公園化への大きな後押しになりました。
高岡城の築城時からほぼ変わっていない3つの水濠に囲まれた高岡古城公園は、射水神社や博物館・体育館・茶屋などの施設があり、園路には高岡に縁のある歌碑や句碑などが置かれており、朝早くから散歩やジョギングをする姿が見られ、日中には参拝者や観光客などが多く訪れ、夕日が沈み辺りが赤く染まってきても人の姿が絶えることのない憩いの公園となっています。
そして、秋には萬葉集に収められた4,516首を2,000人を超える人々が三昼夜かけて歌い継ぐ「高岡万葉まつり」が開催され、春には固有品種のタカオカコシノヒガンが満開となって公園内を彩り鮮やかにします。
高岡古城公園の郭の一つ明丸にある動物園では、ペンギンやヤギなど40種以上の動物たちに無料で出会うことができ、子ども連れの家族などに大人気の様子です。
動物園内の自然資料館に入ると、ツキノワグマの剥製とバビッタの愛称で親しまれ1979年(昭和54年)に死去にした後に剥製となったライオンに出迎えられ、館内はさまざまな動植物や富山湾の貝類の標本で溢れています。
また、自然資料館内で手にできる「どうぶつえんだより」には飼育されている動物たちの紹介や「来園者の声・ギモンに答えますシリーズ」などといった動物たちのさまざまな解説がなされており、子どもだけでなく大人たちも勉強になります。
ニホンザルの紹介プレートの横に掲げられた悲しいお知らせには“11月1日にフグコは天国に旅立ちました。”と書かれており、来園者も一緒になって死の悲しみや誕生の喜びなど動物たちの生き様の共有と共感ができる地域の来園者にとって身近な動物園になっています。

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「高岡の街の金工 たのしめり 詩のごとくにも のみの音を立つ」(与謝野寛)
1609年(慶長14年)に高岡城が築城され、前田利長が他の城下から家臣430戸余・町民630戸余を移住させたことで高岡の町は5,000人規模の城下町として栄えました。
1611年(慶長16年)に産業を新たに興して高岡城下を発展させるために7人の鋳物師(いものじ)を高岡に招き、翌年には11人となった鋳物師によって高岡鋳物が始まることになります。
しかしながら、前田利長が亡くなった翌年の1615年(慶長20年)に一国一城令が発令されたため、高岡城は廃城となり家臣たちは金沢へ移っていくことになりましたが、前田利長の意志を継いだ前田利常は城下の人々の転出を規制し、商人と職人を残し保護することで高岡を商工業の町へと転換させていきました。
高岡で鋳物が始まった当初は鉄で鍋や釜・鍬などの日用品や農機具が作られていましたが、次第に製塩用の塩釜や魚肥用のニシン釜などの大型の鉄製品を手がけるようになっていきます。
江戸時代中期の1751年以降には梵鐘(ぼんしょう)や灯籠などの銅鋳物が盛んになり、やがて仏具師によって仏具や装身具・香炉・花瓶・茶道具などの銅鋳物に彫金を施す唐金鋳物(からかねいもの)が生み出され、日本海側を大坂と蝦夷地でつないだ北前船の活躍もあって、生活の質が向上していた世間の需要に応えたことにより、高岡の町はますます発展していきました。
1862年(文久2年)のロンドン万国博覧会や、日本が初めて出展参加した1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会で、高岡の銅器が出品されました。
明治維新後の1876年(明治9年)の廃刀令以降には、職を失った旧富山藩や旧金沢藩が抱えていた刀装金工の職人や象嵌(ぞうがん)の職人を高岡へ招き入れたことで、唐金鋳物の意匠はさらに緻密で華やかに進歩していきます。
1873年(明治6年)には明治政府として初めて参加したウィーン万国博覧会で出品された横山孝茂(初代彌左衛門)と孝純(二代彌左衛門)の親子が合作した、高さ126.7cmの「頼光大江山入図大花瓶(らいこうおおえやまいりずだいかびん)」は好評を博し、高岡の銅器は世界に知られることになります。
「われ入りて 鍋作りする廬にあるを 夕日と思ふ ひろきかな屋に」(与謝野晶子)
1933年(昭和8年)に、高岡鋳物の技術の粋を集めた高さ約16mの青銅製の阿弥陀如来坐像「高岡大仏」の開眼式が高岡の大佛寺で挙行されました。
これは3代目となる高岡大仏で、初代は木造であったため1821年(文政4年)の高岡大火で焼失し、2代目は1841年(天保12年)に木造再建されましたが、1900年(明治33年)に町の約6割を焼き尽くした高岡大火で再び焼失してしまいます。
焼失前の2代目の姿は、高岡の名所・人物・施設などを双六(すごろく)にした1900年元日の北陸中央新聞付録「高岡繁昌双六」の「ら」の箇所に描かれています。
高岡の町を代表する象徴の一つとして3代目となる円光背を持つ高岡大仏は、訪れるすべての人をとても優しく柔らかなまなざしでいつでも迎えてくれます。
高岡に流れる千保川沿いの金屋町は、千本格子(さまのこ)の家が軒を並べ、石畳の街道が通る2012年(平成24年)に重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い町並みです。
鋳物産業より栄えた金屋町、その内の一軒の高岡市鋳物資料館には、古文書や古い鋳造用具など数多くの貴重な資料が展示されており、11人の鋳物師から継がれた400年以上の高岡鋳物の歴史と伝統を知ることができ、展示されている近年の作品には、これからの時代に求められる創造性に富んだ高岡鋳物の新たな息吹を感じることができます。

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「かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを」(大伴家持「萬葉集 巻17・三九五九」)
富山県の旧国名である越中国の名所を指す歌枕の一つに「有磯海(ありそうみ)」があります。
有磯海は現在の雨晴海岸一帯を中心とした富山湾を指していますが、実際には有磯海という海は過去においても存在したことはありませんでした。
大伴家持が越中国に赴任してまもなく、弟の大伴書持(おおとものふみもち, ?-746)が亡くなります。
花草花樹を愛し、大伴家持が越中国への赴任の際には泉川(木津川)まで見送りに来てくれた最愛の弟でした。
弟の訃報を越中の国で聞いた大伴家持は、“こうなるとあらかじめ分かっていたのなら、越中の海の荒磯に打ち寄せる波の有様を見せたかったものを”と、海を見たことがない弟に越中の海の突き出た岩石に波が打ち寄せる荒々しい磯の景色を見せたかったと悲しみました。
「渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ」(大伴家持「萬葉集 巻17・三九八六」)
荒磯(ありそ)とは岩石が露出した荒々しい磯のことで地名を指してはいませんでしたが、萬葉集の大伴家持の歌が詠まれ伝えられたことで、平安時代の古今和歌集には「荒磯海」となり、平安時代以降の能因歌枕や八雲御抄などといった歌学書(和歌に関する学問書)には「ありそうみ」や「ありそ」が歌枕として取り上げられており、荒磯の元となっている萬葉仮名(原文)の「安里蘇, 安利蘇(ありそ)」の読まれ方が「ありそうみ」に結びつき、やがて実在しない有磯海として越中国の海を指す歌枕になっていったと言います。
「わせの香や 分入右は 有磯海」(松尾芭蕉「おくのほそ道」より)
俳人の松尾芭蕉(1644-1694)が、能因(988-?)や西行(1118-1190)といった平安時代の歌人の足跡をたどり、歌枕や名所旧跡を訪れながら先人を追慕する1702年(元禄15年)刊行の「おくのほそ道」の旅路で越中国に入った際に句を残したことから、雨晴海岸から見る女岩と立山連峰は「おくのほそ道の風景地」の有磯海(女岩)として2014年(平成26年)に名勝指定され、翌年には義経岩の範囲が追加されたことで有磯海と名称変更し、芭蕉が訪れた名所の一つとして存在感を高めています。

昔から1280年ほど後の今へ。
現代の初冬のある日、冷たい海風が吹き白波が寄せる雨晴海岸で雪をいただいた立山を背にした女岩をじっと眺めている。
ここは、大伴家持の歌に詠まれた絶景で、その後も幾人もの歌人や俳人がこの有磯海を見て詠んできました。
実際には訪れて目にすることなく、萬葉歌人の大伴家持が見た有磯海を想って詠まれた秀歌や秀句もあるのでしょうが、その想いを裏切らない名所です。
でも本当は、大伴家持が見ていた渋谿の荒磯とは違う、千年を超える歳月を経て変わっていった有磯海を眺めています。
かつてはどのような景色だったかはもう知る由もありませんが、詠まれた歌はこれからもずっと人々を魅了し続け、目の前の有磯海の姿とは違う、渋谿の荒磯の姿を各々の心の内にだけ見せてくれるのでしょう。
二上山の山上で鐘をつき、高岡古城公園で水濠を優雅に泳ぐ水鳥を見て、高岡大仏では優しいまなざしを向けられ、金屋町で鋳物のこれまでとこれからを知ります。
やや歩き疲れて立ち寄った茶房、金屋町の古い屋敷の中庭を望める部屋で温かいコーヒーを飲みながら、「さあ、次はどこへ行こうか」とあちこち巡って手に入れた観光冊子や名所地図を広げると、自分がまだ知らない地へと誘われることに心が躍ります。
この未知の地へ出発する時の気持ちの高ぶりだけは、きっと、今も昔もどの時代に生きる人も変わらなかったことでしょう。
写真・文 / ミゾグチ ジュン














