「向ふ向でいひながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くやうな。」(泉鏡花 著「高野聖」より)
かつての飛騨河合村と白川村の境に位置する標高1289mの峠であり、年の半分は雪で閉ざされる『天生峠(あもうとうげ)』。
『天生峠』の一帯はブナの原生林、カツラなどの渓畔林、8種類のカエデやナナカマド、ミズバショウが群生する高層湿原、「春の妖精」(Spring ephemeral)と呼ばれるニリンソウ・サンカヨウなどの亜高山帯植物が息づき、オオルリなど40数種の野鳥が飛来するなど、雪解けから晩秋までの限られた自然界の美しき深淵の一端を覗き見ることができます。
「雪のやうなのを恁る霊水で清めた、恁云ふ女の汗は薄紅になつて流れやう。」(「高野聖」より)
『天生』には、このような話が伝えられています。
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今は昔、飛騨の小鳥川に沿う「余部の里(あまりべのさと)」に九郎兵衛という百姓が住んでいました。
その一人娘『信夫(しのぶ)』は容姿が優れないため、なかなか嫁のもらい手がありませんでした。
村祭りのある夜、『信夫』は人前に出ることを嫌っていたため祭りに顔を出すことをせずに一人で小鳥川の近くを歩いていました。橋まで来た時に急に喉の渇きを覚えて水を飲もうと川に降りました。
川の水を手ですくおうとすると、美しい満月が水面に映っていました。
そのまま月と一緒に水をすくい飲み干すと、不思議なことに『信夫』のお腹はだんだん膨らんできました。
名も知れぬ他人の子をはらんだことを恥じた九郎兵衛は、『信夫』を家から追い出してしまいます。
そして、山で一人隠れて『信夫』は男児を産みました。
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天から子を授かったことから、後にこの地を『天生』と呼ぶようになったと伝えられています。
一説には、大陸からの渡来人が、優れた材木を探し飛騨の山奥に分け入った際に出会った『信夫』との間にもうけた子であると言われています。
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生まれた男児は鳥のように長い首をしていたため、村の人々から『とり』と呼ばれました。
『信夫』は成長した『とり』を連れて飛騨「田形」と呼ばれる地へと移り住みました。
『とり』は木工の技芸にとても優れており、17の時に都に呼ばれ神社仏閣などを手がける立派な工匠となりました。
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第33代女帝『推古(すいこ)天皇』の時代、623年に完成した『聖徳太子』(厩戸皇子)の等身像である『法隆寺金堂』の本尊『釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)』の光背裏面に刻まれた196文字の銘文には、『聖徳太子』(厩戸皇子)の没年月日などと共に像の作者として『… 使司馬鞍首止利佛師造』と記されています。
『止利佛師(とりぶっし)』とは『鞍作止利(くらつくりのとり)』の事で、『信夫』の子『とり』だと伝えられています。
「衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反らして立つた、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなほ半腹の其の累々たる巌を照らすばかり。」(「高野聖」より)
『天生峠』から『天生湿原』へ、そして更に奥深く進むことでたどり着く標高1744mの『籾糠山(もみぬかやま)』。
『籾糠山』には、このような話が伝えられています。
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『信夫』とその子『とり』が移り住んだ「田形」の地で、『とり』が作った木彫りの人形は人間のように動いたので、その人形を使って一日で田を作り、稲を植えました。
稲は一夜にして実り、夜明けには穂が垂れました。
収穫した米を脱穀している際に、風で飛ばされた『籾糠(もみぬか)』(籾殻)が積もって山となります。
その山は『籾糠山』と呼ばれるようになり、「田形」に作られた田は後に『天生湿原』となりました。
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「山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息ぢやらうと思つた。」(「高野聖」より)
右も左も山ばかりで、手を伸ばせば届きそうな峰々、美しく色付く木々に囲まれた秋の天生峠。
天生峠から籾糠山の頂までの山道では、金茶色の天生湿原が広がり、鬱金色のブナの原生林、落葉したカツラの巨木と周りに群落する青々としたシダ植物たちに出会えます。
陽が当たらない場所に足を踏み入れるとバリバリと足下から音が鳴り、霜柱を踏み壊したことに気付きます。
周りをよく見ると朝霜が降り一面に白くなった草原が広がっており、ときおり吹く冷たい風が、冬の訪れと閉山が近いことを感じさせてくれます。
ガーンガーンと山道に吊されたクマよけの一斗缶を叩き、「カツラ門」と呼ばれるカツラの巨木群を抜けて籾糠山の頂をゆっくりと目指します。
鳥のさえずりを耳にしながら狭い登り道をどこまでも進み、やっと辿り着いた頂。
そこから眺める遙かなる景色と吹き抜ける秋風に包まれると、ほんのりと佳い薫りがしてきます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン