「浅間山には鬼が棲む」
1783年8月5日(天明3年7月8日)に、群馬県と長野県にまたがってそびえる標高2568mの『浅間山(あさまやま)』が大噴火を起こし、その際に発生した火砕流によって火口から北12km離れた宿場・鎌原村(かんばらむら)を飲み込んだ『天明の大噴火』。
犠牲者は477名、生存者93名と住民の8割がこの火砕流によって命を落とすことになり、『鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)』に逃げ延びた者だけが助かりました。
その堂に至る50段の石段の内35段分(約6.5m)が火砕流に埋まっており、1979年の発掘調査により埋没した石段の最下部から、女性が年配の女性を背負っている白骨化した姿が発見され、火砕流から逃れるために鎌原観音堂の階段を駆け上がったその2人は母娘だったのか嫁姑だったのかは今となっては分かっていません。
噴火後の火砕流は鎌原村の北を流れる吾妻川に流れ込みせき止めましたが、決壊し大洪水を起こし多くの村々を押し流して犠牲者1490名の大惨事となります。
火山灰は、関東一円に降り注ぎ日射量低下により農作物に壊滅的な打撃を与え、すでに東日本が飢饉状態となっていた『天明の大飢饉(1781~1789)』をより深刻な事態としました。
特に東北地方はおりからの悪天候や冷湿な風『やませ』による冷害によって田畑は壊滅的被害をうけており、津軽藩では人口の1/3に至る餓死者8万人、盛岡藩では人口の1/4に至る餓死者7万5千人、八戸藩では人口の1/2に至る3万人、仙台藩では8万人を失ったと伝えられ、東北地方を中心に多くの死者がでました。
また、飢餓だけでなく疫病も発生し1780年から1786年の間に全国的に92万人余りの人口減(当時の総人口が2800万人から2900万人)があったとされています。
その中で、上杉治憲(はるのり)【後の上杉鷹山(ようざん)】が治める米沢藩では藩士、領民の区別なく一日あたり米3合の粥を支給するなど迅速な対応で餓死者を出すことなく乗り切り、松平定信が治める白河藩でも同様に対応し餓死者を出さなかったと伝えられています。
都市部に逃げ出した農民による米屋への打ち壊しなどが全国的に広がり治安が悪化し、幕府は白河藩での手腕が買われ老中に任ぜられた松平定信による備荒貯蓄(びこうちょちく:米の備蓄)や人返し(帰農を奨励)などを含んだ『寛政の改革』へと繋がります。
『解体新書』(1774年)を刊行したことで知られる蘭学医『杉田玄白』が著した『後見草(のちみぐさ)』(1787年)には、この『浅間焼け』によって全国で数万人以上の死者が出たことと飢饉による想像を越えた恐ろしい惨状が記されています。
「日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。」
八戸藩士・上野伊右衛門が記した『天明卯辰簗(てんめいうたてやな)』にも、同様に当時の状況が見て取れます。
「夫を欺し打殺して是を喰、我子をも鎌にて一打にてうちころし、頭より足迄食し夫より倒死の市外を見付是を食とし、又々墓々を掘返し死骸を掘出、夜々里に出でて人之子供を追候。」
1783年の浅間山の大噴火によって流れ出た約2億立方メートルと言われる膨大な溶岩が固まり風化し、その恐ろしい情景が『火口で鬼があばれ岩を押し出した』ようであったことから『鬼押出し(おにおしだし)』と呼ばれました。
その後、西部グループの創業者『堤康次郎』によって観光開発され1951年に『鬼押出し園(おにおしだしえん)』として開園、そして1958年に大噴火による遭難者供養のため園内に『浅間山観音堂』が建立されました。
園内にはゴツゴツと不気味に周り一面に存在する溶岩、雲が無くどこまでも広がる青い空、遠いのか近いのかその距離感が分からず戸惑う浅間山との、自然の恐ろしさが造りあげたが故の美しい景観に出会うことができます。
この静かな時の中に一瞬にして多くの地獄を生み出した恐ろしさがあり、今にも噴火するのではないかと心のわずかな不安が、よりこの地の荘厳な自然美を引き立たせることになりました。
写真・文 / ミゾグチ ジュン