「そうだなあ 人間の運命なんてわからないもんなあ」(「男はつらいよ 寅次郎と殿様」より)
瀬戸内海西部に広がる海域「伊予灘(いよなだ)」に面し、かつては「日本一海に近い駅」と呼ばれた四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である『下灘駅(しもなだえき)』。
1935年(昭和10年)6月9日に開業された際は両側が線路に接した1面2線の「島式ホーム」でしたが、1986年(昭和61年)に予讃線新線が開業した後に駅舎側の線路が撤去されて、1面1線の「単式ホーム」になりました。
開業当時は、ホームの下まで波が打ち寄せる駅でしたが、1981年(昭和56年)に海面を埋め立て国道378号が開通したことで、当時に比べて海が遠くなりました。
しかしながら、海を眺め波風を肌に感じる場に佇む木造の駅舎は、改装を繰り返しながらも今なお使われており開業当時の面影を残しています。
かつてに比べて波音は遠くなりましたが、『下灘駅』から臨める海と吹き付ける風、そして夏の日差しを肌に感じ、いずれやって来るだろう電車をのんびりと待つ時間は、きっと誰にとっても優美で思い出深い人生の一刻となることでしょう。
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愛媛県・大洲市へ
「寂しさや 昔の家の 古き春」(松根東洋城)
愛媛県西部を流れる「肱川(ひじかわ)」の河畔の地蔵ヶ岳に築かれた『大洲城(おおずじょう)』。
「宇都宮豊房(うつのみやとよふさ)」によって、後の『大洲城』の前身となる「地蔵ヶ嶽城」が築城されたのは1331年といわれており、近世城郭の形になるのは1609年頃に「藤堂高虎」らによって大きく修築されてからになります。
築城の際の逸話が残っています。
「地蔵ヶ嶽城」を築城する際、川に面する高石垣が何度積み直しても崩れたことで、人柱を立てることになりました。
しかしながら、自ら人柱になりたいと言う者はおらず、くじ引きで決めることになります。
くじによって「おひじ」という16歳の娘が選ばれることになり、最期の願いとして川に自分の名前をつけて欲しいと願います。
そして、人柱によって高石垣は崩れることはなく、城も立派に築城されました。
その後、「おひじ」の願い通りに川は「比志川(ひじかわ)」(後の肱川)と名付けられます。
いつしか「おひじ」が住んでいた町は「比志町」、城を「比志城」と呼ばれるようになりました。
哀しい物語を持つ『大洲城』は、残念ながら明治維新後の1888年(明治21年)に老朽化もあり4層4階の天守は解体されることになりました。
時代は移り、1994年(平成6年)に「大洲城天守閣再建検討委員会」が発足し、明治期の写真や大洲藩が作成した大洲城絵図、天守の建築や修復に際して内部の柱や梁などの木組みを再現した縮尺模型の『大洲城天守雛形』(高さ64.5cm:横幅42.4cm:奥行き36.0cm)などの史料によって、2004年(平成16年)に木造で当時の天守に限りなく近い姿で復元されました。
まだまだ真新しい天守は、微かに新築のような木の香りを残しており、これから長い長い年月を経て他の現存する天守のような歴史ある深い色合いと風格を備えていくのでしょう。
『大洲城』と同じく「肱川」の流域に位置し「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから『臥龍』と命名された地に、木蝋貿易で財を成した「河内寅次郎」によって、老後の余生を過ごすために明治30年頃から10年の歳月をかけて築造した『臥龍山荘(がりゅうさんそう)』。
「肱川」を眺め、川からの涼しい風とあたりを囲む木陰は、息苦しい夏の暑さをずいぶんと和らげてくれます。
夕涼みをしながら川の流れを聞き、美味しいものを食べながら今宵の月を愛でる、こんな贅沢な余生の過ごし方はないでしょう。
写真・文 / ミゾグチ ジュン