「崖急に 梅ことごとく 斜なり」(正岡子規)
水戸藩9代当主『徳川斉昭(なりあき)』によって、中国の古典「孟子」の「古之人與民偕樂、故能樂也」(古の人は民と偕に楽しむ。故に能く楽しむなり。)から、『衆と偕(とも)に楽しむ』と想いを込められ1842年に開園された金沢の「兼六園」・岡山の「後楽園」と並び称される日本三名園の一つ『偕楽園(かいらくえん)』。
同時期に開館した水戸藩の藩校「弘道館(こうどうかん)」で文武を学ぶ藩士の休息場として『偕楽園』は造られましたが、「愛民」「敬天愛人」といった「水戸学」の思想に沿って江戸時代より毎月「三」と「八」が付く日には衆(領民)に開放されていました。
1839年の開園前に建てられた「偕楽園記碑」には、自然界全ての陰と陽の相反するものの調和による万物の育成や「一張一弛(いっちょういっし)」(緊張と弛緩)の精神を掲げ、「一張」は修行の場「弘道館」に対し「一弛」として余暇に休息し心身を養う場として『偕楽園』を開園すると記されています。
開園当時にはおよそ6000本もの梅の木が植えられ、質素倹約の時代(天保の改革)に花を眺める楽しさを与えるだけでなく飢饉や戦の際の非常食として梅の自給自足が図られていたとも言われています。
現在の偕楽園には100種約3000本の梅の木が植わっており2月下旬から3月下旬には梅の花が満開となり、4月には新緑の草木を背景に約380株の色鮮やかなツツジが咲き誇るのを見られます。
花が散った後の梅の木には小さな実がつき始めており、園内を散歩しながらまだ青々した梅の実を探してみる楽しさがあります。
入園は無料で、『偕楽園』へは東門からではなく「表門」から入り「一の木戸(いちのきど)」を通って孟宗竹林と大杉森に囲まれた静寂の道へ、その道を抜け中門をくぐると梅の木が広がる「陰」から「陽」への『徳川斉昭』が求めた世界観を体感することできます。
「梅の間よ 今は眺めてしづかなり 一際にしろき梅の花見ゆ 春早くここに眺むる誰々そ 一樹のしろき寒梅をあわれ」(北原白秋)
『好文亭(こうぶんてい)』は、『徳川斉昭』自ら設計図を描き詩歌や茶会を催すために偕楽園内に建てられ、故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」より梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」と言ったことから『好文亭』と命名されました。
木造2層3階建ての斉昭の別邸『好文亭』と、木造平屋建てで桜の間・萩の間・竹の間・梅の間など10室からなる藩主夫人の休息所である「奥御殿」があり、それら全体を総称して『好文亭』と呼ばれています。
『好文亭』には斉昭が考案したとされる手動で動く木製のエレベーターが設置されており食事などを1階から3階へ引き上げ運ぶことができます。
残念ながら『好文亭』は1945年の水戸空襲で焼失してしまいますが、1958年に3年かけて復元されました。
しかしながら1969年に落雷によって奥御殿が焼失し1972年に改めて復元されることになりました。
『好文亭』の3階から一望できる周囲約3kmの「千波湖(せんばこ)」は、かつての水戸城の南を守る天然の堀で当時は今の約3.8倍の広さを誇っていました。現在では、ソメイヨシノなど約750本の桜並木の遊歩道が湖を囲みジョギングやウォーキングを楽しめる憩いの場となっています。
偕楽園の東門の茶屋で販売されている「梅ソフトクリーム」と偕楽園の梅を使った「梅干し大福」は、訪れる度に食するお気に入りの梅スイーツです。
帰りには梅干しを購入と、ここでは梅づくしの一時を堪能できます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン