火山灰や砂礫が海底に堆積し凝結した「凝灰岩(ぎょうかいがん)」で正式名は「流紋岩質溶結凝灰岩」、日本列島のほとんどが海に沈んでいた時代の新生代新第三紀中新世(2000~3000万年前)に自然に形成された大谷地域のみで産出される有限の石材である『大谷石(おおやいし)』。
耐火性に優れ、重量が軽く、石質が柔らかく加工が容易、そしてなにより他の石材に比べ温かみある自然の風合いが美しく、古くは古墳時代の石室、奈良時代の下野国分寺の礎石、近代の建物として平等院鳳凰堂をモチーフとした東京の「旧帝国ホテル」(現在は明治村に保存)や近代ロマネスク様式を基調にした「カトリック松が峰教会」に使われました。
一般的には、石塀・門柱・敷石などの住宅材、最近ではパンやピザを焼く窯や石窯の構造材、宇都宮駅にある餃子像にも用いられており、切り出された時は水分を含むため緑色で、しだいに茶色から自然な白色へとその色合いが大きく変化するのも特徴となっています。
1979年に一般に公開された「大谷資料館」内の階段を下ると、ひやりと気温8℃前後の広大な地下採掘場跡に降り立ちます。
広さは約2万平方メートル(140m × 150m)、深さは平均30mで最深部は60mに及び、さながら空想物語に描かれる地下神殿のようです。
大谷石の採掘が本格的に始められたのは江戸時代中期からで、ツルハシによる手掘りされた壁面は横流れの独特な層ができていて少しずつここまで掘り下げられたんだという実感を見て取れます。
1本の大谷石(18 x 30 x 90cm・120kg)を掘るのに3600回ものツルハシを振り下ろしたと言われ、一人の採掘量は1日で12本ほどだったようです。
1960年頃からは機械化されて大谷石の採掘量は約2倍となり、その壁面には手掘りとは違ったチェーンソー裁断機による採掘跡が現れてます。
1919年から1986年まで採掘が行われた大谷石地下採掘場は、1943年に陸軍の兵士の食糧や軍馬の餌の調達・保管などを行う機関である「糧秣廠(りょうまつしょう)」・軍服を製造した「被服廠(ひふくしょう)」の地下秘密倉庫として一時使われ、1945年には「中島飛行機」(現在のSUBARU:旧・富士重工業)の戦闘機「疾風(はやて):四式戦闘機」の機体工場として利用されました。
今では、この神秘性を帯びた地下神殿を活用したコンサートやドラマや映画の数々のシーンに使われ、採掘場跡からの第2の歴史を華々しく刻んでいます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン