「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」(フランシスコ・ザビエル)
創設は平安時代とも鎌倉時代とも言われ、江戸時代を経て明治5年まで存続した『足利学校(あしかががっこう)』。
室町前期には衰退していたが、1432年に『上杉憲実(うえすぎのりざね)』が足利の領主となり自身の蔵書を寄贈し、鎌倉・円覚寺の僧『快元(かいげん)』を庠主(しょうしゅ:今で言う校長)として、儒学を中心に兵学・易学・医学を教える学校へと再興しました。
それらの効果で奥羽や琉球からも人が集うようになり、第7世庠主・九華(きゅうか)の1550年頃には総数三千人と記録されるほどの盛況となり、フランシスコ・ザビエルを通して『足利学校』はヨーロッパに紹介される事となります。坂東とは、関東地方の古名で足柄坂と碓氷峠より東側を総称してそう呼んでいました。
足利学校では、『学規三条(がっきさんじょう)』という「学問の内容や規則を守らない場合は在校を許さない」、「就学に不熱心の在学を許さない」、「みな僧侶の身分になる(いつでも還俗可)」の校則がありました。学費はなかったようで、食事と宿舎が提供されており勉学の基本は『自学自習』で、自分が学びたい学問を納得がいくまで何年もかけて学び、年数による卒業ということはありませんでした。
足利学校で学ぶ者たちは各地で重宝されており、とかく『易学』は重要視され兵の出兵や合戦日、方角などを決める際の大切な学問でした。
軍学書『甲陽軍鑑』に戦国武将『武田信玄』の逸話が残っており、信玄の側近がとある軍配者を推挙した際に信玄は『占いは足利にて伝授か』と問い、否と答えた側近を叱責したと言われています。
それほど足利学校で学んだ者への信頼があったことが伺えます。
また易学だけでなく『曲直瀬道三(まなせどうさん)』(1507-1594)など、現代までその技術が伝わる医学者も排出しました。
第9世庠主・三要(さんよう)は関ヶ原の合戦で徳川家康に従い易を立てその勝利に貢献しました。そのこともあり幕府より百石の朱印地を賜ることとなり、足利学校は徳川幕府から特別な庇護を受けます。
また、徳川家康の側近『大僧正天海』も足利学校出身でもありました。これらのこともあり足利学校では、徳川家の位牌を代々安置し礼拝することになります。
平和な時代となった江戸時代には『易学』も『兵学』も不要となり、『儒学』も封建支配のための思想として『朱子学』に置き換わり次第に衰退していきます。また、各藩に『藩校』を創設することになり足利学校の役割が時代とともに薄れていき、もはや古典を所蔵する図書館としての存在になってしまいます。
そうして、明治維新後の1871年『廃藩置県』により役割を終え翌年に足利学校は廃校となりました。
廃校後は、建物の撤去や蔵書の散逸の危機を、旧足利藩士『田崎草雲』たちの活動により脱し1903年に公共図書館を設立し、1990年には江戸中期の趣きを再現し建物や庭を復元しました。
復元された建物『方丈(ほうじょう)』は、ずいぶんと立派な茅葺屋根で当時の盛況ぶりを確認することができます。茅の香りなのか近くに行くと独特な香りが漂っています。
なかでも『宥座之器(ゆうざのき)』と言われる孔子の説く『中庸(ちゅうよう)』を教える道具は、壺の器に水がないと傾き、水を程々に入れると真っ直ぐに立ち、水をいっぱいに入れるとひっくり返ってこぼれてしまう『満ちて覆らないものはない』を教えていたようで、実際に水を入れて体験することができます。
残念ながら足利学校に関する多くの資料が展示されているわけではないのですが、このような高度な学校が古来から足利にあり、そこで志を持つ先人たちはみんなで学び合い今日の日本をつくる礎を築いて来たんだと、この足利に訪れることで、確かな志と常に学ぶ姿勢を持つ大切さを思い起こすことができそうです。
「まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに」
利根川水系の『渡良瀬川』に架かる斜材をW字に配置したワーレントラス橋で橋長243.27m・幅員5.5mの『渡良瀬橋(わたらせばし)』。
渡良瀬川は、栃木県日光市と群馬県沼田市との境界にある山『皇海山(すかいさん)』を源に、足利市などへ流れる一級河川です。鎌倉時代の随筆『徒然草』に記される足利の織物は、渡良瀬川の水流を使い染めた糸や布を洗い、舟運で江戸に運ばれました。
渡良瀬橋は、1902年に木製のアーチ橋として架けられましたが陸軍の演習の際に重量のある車両を通行させるために1934年に現在の橋に架け替えました。
渡良瀬橋の周辺の河川敷は、広い緑地となっており見渡す景色は緑に囲まれ爽やかな川風と共にとても気持ち良いです。夕刻の僅かな時間、茜色に染まる渡良瀬橋と渡良瀬川は、その場の誰もが同じ美しさを感じ共有できる瞬間になります。
写真・文 / ミゾグチ ジュン