
「丹波篠山 山家のサルが ヨイヨイ 花のお江戸で 芝居する ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
兵庫県の中東部に位置し、篠山城を中心に栄えた城下町には武家屋敷や町屋が残り、夏にはデカンショ節が盛大に唄われ、秋には黒大豆が豊かに実る『丹波篠山市(たんばささやまし)』。
1999年(平成11年)に兵庫県多紀郡の篠山町(ささやまちょう)と周辺の三町が合併して篠山市(ささやまし)になりますが、2004年(平成16年)に隣市が合併して丹波市となったことを起因にした難題が篠山市側に生じたため、古来から丹波篠山として知られていた篠山市は、2019年(令和元年)に市名変更の賛否を問う住民投票を経て丹波篠山市が誕生します。
「山は三嶽 流れは大雲 ヨイヨイ 此れぞ故郷の 天地なる ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
山地が約75%を占める丹波篠山市は、北部には多紀連山(たきれんざん)、南部には深山山地(みやまさんち)といった標高400〜800mの山並みに四方が囲まれる篠山盆地を中心にして市街地が広がっています。
東西約16km・南北約6kmの横長の広さをもつ篠山盆地からは貝類の化石などが見つかることから、約一万から三万年前には盆地一帯が湖や湿地だったと考えられ、しだいに細かい粘土や泥炭などに埋められて陸地化していったことから、数千年前には人々の営みが始まり、縄文時代や弥生時代の遺跡からは土器や石器などが出土しており、稲作の定着によっていくつもの小集落が形成されて、広い範囲で生活が営まれていたと言います。
また、兵庫県においても最大規模の前方後円墳の形状をもつ「雲部車塚古墳」を含め、千基を超える古墳が丹波篠山市内には点在しています。

「風が吹く吹く 篠山城の ヨイヨイ 松に武勇の 声高く ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
丹波篠山市の中央部には、東西・南北ともに一辺の長さが約400mの方形をした外堀に囲まれる「篠山城跡」があり、1956年(昭和31年)に国史跡の指定を受けています。
1609年(慶長14年)に平野の丘陵を利用して築城された平山城である「篠山城(ささやまじょう)」は、明治時代を迎えた1873年(明治6年)の廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)によって大半の建物が取り壊されます。
築城とほぼ同時に建造された城内最大の建物で、唯一残っていた篠山藩の公式行事などに使われた「大書院(おおしょいん)」が、1944年(昭和19年)の火災によって焼失してしまったことで、現在では篠山城の往時を偲ぶことができるのは、城郭の基盤となる石垣と馬出(うまだし)の遺構、そして水が満々に湛えている外堀と内堀の一部が残っているだけになっています。
「慶長十三年六月 此月 丹州ハ山陰道ノ要地タルニ 八上ノ城地ハ要害悪シキニ依テ是ヲ廃シ 其辺篠山ニ城ヲ築クベキノ沙汰ナリ」(公室年譜略)
豊臣秀吉(1536-1598)の死後、徳川家康(1542-1616)は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで勝利したことで豊臣氏が握っていた覇権を手にし、1603年(慶長8年)に征夷大将軍の宣旨を受け、江戸に幕府を開きますが、徳川政権の安泰のためには豊臣秀吉の嫡子である豊臣秀頼(1593-1615)が大坂城で健在なのは大きな脅威となっていました。
そこで、難攻不落の大坂城を攻略し豊臣家を滅ぼすために、徳川家康は山陰地方から京都に通じる山陰道を押さえる要衝となる場所に新たに城を築こうと、徳川家康の落胤(らくいん, 落とし子)という説があり、常陸国(現在の茨城県)より転封して篠山盆地の南東部の山城である八上城(やかみじょう)の城主となった松平康重(1568-1640)に築城場所を選ばせます。
松平康重は篠山盆地にある王地山・笹山・飛ノ山の三つの孤立丘陵を候補地としてあげ、その報告を絵図にて受けた尾張国(愛知県)の清洲城にいた徳川家康は八上城を廃して、東側の王地山と西側の飛ノ山に挟まれ、南側に篠山川が流れている笹山を利用した平山城を築城する裁断を下します。
1609年(慶長14年)に、播磨国より姫路城主の池田輝政(1564-1613)を普請総奉行、伊勢国(現在の三重県)より津城主の藤堂高虎(1556-1630)を縄張奉行として、豊臣恩顧の十五カ国・二十侯の西国外様大名に扶役を命じる大がかりな天下普請(てんかぶしん)で築城が始まり、半年余りの突貫工事で完成した篠山城に初代城主として松平康重が入城します。
篠山城完成の翌年には城下町の建設も始まり、外堀の周辺に武士の屋敷を設け、これを囲む街道筋に町屋を廃城となった八上城の城下から移し、さらに外側に武士の屋敷を置いて、篠山城を中心に町全体が城塞化するように、1701年(元禄14年)頃までの期間をかけて完成させていきます。
また、篠山城には天守台はあっても天守は築かれず、当初は建造する予定でしたが、徳川家康が天守は人目に立って敵方の狙いとなり籠城戦には邪魔になる、それよりも弓と鉄砲の隠し狭間をしっかり作るようにと述べたことで天守は築かれなかったと伝えられており、代わって天守台南東の隅に一重の隅櫓が建てられたと言います。
「永享元九月丹州篠山合戰之砌 岩淵上總討捕 無比類手柄義感入 神妙不可勝計候狀如件 木原右近亮殿」( 永享二三月廿日 目代藏人大夫)
篠山城の名称は築城された丘陵(小山)の名称が笹山だったことを由来にしていますが、「笹」から「篠」を使い始めたのがいつなのかは分かっておらず、明治時代までの文献には地名として「笹山」や「篠山」、城名として「笹山城」や「篠山城」、篠山藩の名称も「笹山藩」や「篠山藩」と記されているのが散見されますが、1870年(明治3年)に明治政府よって「篠山藩」の表記に統一されたことから笹山は篠山に定まり、1871年(明治4年)の廃藩置県で篠山縣となり、豊岡縣を経て1876年(明治9年)に兵庫縣に編入されて、現在の丹波篠山市へと至っていきます。
古くは1430年(永享2年)の書簡に地名として「篠山」の名称が出てきますが、篠山城が築城された湿地帯に囲まれた「笹山」が丹波国日置荘黒岡村にある小笹(篠)が生い茂る丘陵であったことから、篠山城(笹山城)の築城をきっかけにしてこの地域を「篠山」(笹山)と呼ぶようになったと考えられています。
「並木千本 咲いたよ咲いた ヨイヨイ 濠に古城の 影ゆれて ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
篠山城跡が国の指定史跡になったことで、1966年(昭和41年)には二ノ丸北東の石垣の修理に着手し、その後は馬出の石垣を含めた各所で修理が継続的に行われ、1998年(平成10年)に本丸天守台の石垣の修理を完了し、2000年(平成12年)には火災によって焼失した大書院を絵図や写真などをもとにして復元し、少しずつ篠山城の往時の様子を伺えるようになっていきます。
篠山城跡の外堀から内堀へ、そこから見える二ノ丸や天守台の石垣、内堀に架かる土橋を渡った先の枡形に配した石垣などは、近江国(滋賀県)の穴太衆(あのうしゅう)が石積みの指導にあたって築かれ、石垣には石を割った痕跡である矢穴や、天下普請で行われた数々の大名が区分分担の責任を果たすために符号が刻まれています。
石垣の各所に刻まれる星や小槌などの約二百種類ものさまざまな形の符号を見つけてみたり、普請総奉行の池田輝政(三佐衛門)の名を記したという「三佐之内」の刻名を探してみるのも、戦国の世に築かれた篠山城をよく知るための一手になりそうです。

「戦前の第四師団の七十聯隊があった頃は、その管下の近畿地方の青年は、ここで軍隊教育を受けたから、篠山は知っている。それ以外は、ここを郷土とする者以外には、余りその土地さえ踏んだ人は尠ない。それなのに、丹波篠山の名は大袈裟にいえば天下にとどろいている。それほど有名になったのには、いろんな原因がある。別にスポンサーがあったわけでもないのに、篠山は先づデカンショ節で古くから広く知れ渡った。」(平野零児「丹波篠山」)
丹波篠山市では、毎年8月15日と16日の二日間にわたり「デカンショ節」に合わせて踊るデカンショ祭が、1953年(昭和28年)から開催されています。
デカンショ節は篠山で歌い継がれている七七七五調の民謡であり、デカンショ祭りは篠山城跡を会場にして設営される高さ約8mの巨大な木造の櫓(やぐら)を多くの人が輪になって囲んで踊る盆踊りで、二日間の来場者数が六万人を越える西日本で最大級の民謡の祭典になっています。
そして、400番以上もの歌詞があるデカンショ節は「民謡に乗せて歌い継ぐふるさとの記憶」として、2015年(平成27年)に文化庁が創設した日本遺産の第一期目に選定されます。
「丹波篠山 鳳鳴の塾に ヨイヨイ 文武鍛える 美少年 ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
デカンショ節が世に知られるようになったのは、1898年(明治31年)に東京に遊学していた篠山の鳳鳴義塾出身の学生たちが、夏に千葉県館山の浜で遊んだ折に宿泊していた旅館で別の学生に教えたことが始まりで、その陽気な節まわしが時代の風潮にあったことから書生節として学生の間で大流行し、やがて郷土色のある情緒豊かな歌詞を加えながら日本全土で愛唱されるようになったと言います。
「破れふんどしや 将棋のこまよ ヨイヨイ 角と思たら 金が出た ヨオイヨオイ ヤットコセ」(みつ節)
「丹波篠山 男子の肝に ヨイヨイ おやじこれ見よ毛が生えた ヨオイヨオイ デッコンショ」(みつ節)
デカンショ節の生い立ちはよく分かっておらず、江戸時代に盆踊り唄として篠山に伝わる三拍子の「みつ節」(三ツ節)が由来だと考えられており、1904年(明治37年)に日露戦争が始まる以前にはよく歌われ、田舎じみた野卑(下品)な歌詞が多く、囃子詞のデッカンショが「ヤットコセ」、篠山城下においては「デッコンショ」と篠山の地域ごとに囃子詞の違いがあったと言います。
東京に遊学中の篠山の学生が歌ったのは囃子詞がデッコンショの「デコンショ節」であったといい、いつしか東京の学生の間で書生節のデカンショ節として広がり、日本全土でも唄われるようになったデカンショ節は明治時代の末期には篠山へと里帰りし、長く盆踊り唄として多くの人々に親しまれていきます。
デカンショの語源には、木綿糸を紡ぐ糸車の音から「テコンショ」、飲み明かし歌い明かす「徹今宵(テッコンショ)」や篠山の方言で「デゴザンショ(で御座んしょ)」、酒造りの出稼ぎをもじって「デカセギショ」、学生が愛読した西洋の哲学者デカルト・カント・ショーペンハウアーのそれぞれの頭文字をもじったなどの諸説があるが、それらは後付けされた語源であり実際には特別な意味を持っているわけではなく、囃子詞として頻繁に使われる「ドッコイショ」が変化したと考えられています。
「デカンショデカンショで 半年ゃ暮らす ヨイヨイ あとの半年ゃ 寝て暮らす ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
「デカンショデカンショで 半年ゃ暮らす ヨイヨイ あとの半年ゃ 寝て暮らす ヨオイヤレコラ デッカンショ」(篠山節)
1953年(昭和28年)に、篠山川の河原を会場に中央に小さな櫓を組んで第一回目のデカンショ祭が始まり、それまでは盛大な盆踊りが夏に行われていたがデカンショ節で踊ることはほとんどなかったと言います。
1957年(昭和32年)にはデカンショ節保存会が発足し、男女問わずに踊りやすい新たな振り付けを考案し、当初は一部の有志がデカンショ節で踊る姿を見るだけの祭りでしたが、地域や団体で連を編成して参加するようになったことで、みんなが踊って楽しむデカンショ祭に進化していきます。
江戸時代に農民の間で唄われる民謡から始まり、明治時代に学生の間で広がったことから、篠山と言えばデカンショ、デカンショと言えば篠山と日本全土で知られるようになったデカンショ節は、いつまでも丹波篠山市で唄われるようになっていきます。
また、みつ節に近い曲調を持つ「篠山節」(デカンショ節)も篠山で古くから愛唱されていたことから、みつ節を由来にして異なる過程を経てきた二つのデカンショ節が篠山には歌い継がれていると言います。

「あゝ、祖母さんの懷で昔話に聞いた、栗がもの言ふ、たんばの國。故と下りて見た篠山の驛のプラツトホームを歩行くのさへ、重疊と連る山を見れば、熊の背に立つ思がした。」(泉鏡花「城崎を憶ふ」)
最大幅約45mの外堀に囲まれる篠山城跡の北側には、大手馬出の遺構が残り、篠山藩主青山家の別邸であった桂園舎、1891年(明治24年)に建設されて1981年(昭和56年)まで使用していた篠山裁判所、1923年(大正12年)に建築された大正期の洋風建築の趣を残した旧篠山町役場、「おかすがさん」の愛称で呼ばれる奈良県の春日大社より分祀した春日神社などと、数は少ないですが商店街の立ち並ぶ建物に混じって丹波篠山市がたどった歴史の一端を感じることができます。
外堀の東側には石垣が残る馬出跡や酒造りを支えてきた丹波杜氏の歴史に触れる資料館、外堀の西側には堀に沿って御徒士町(おかちまち)と呼ばれる通りがあり、火災で一帯が焼失した1830年(天保元年)以降に建てられた安間(あんま)家の武家屋敷が1994年(平成6年)の大改修後に史料館として公開されています。
禄高12石3人扶持の安間家は篠山藩六万石の藩主青山家の家臣であり、曲家形式で四方に庇(ひさし)を葺(ふ)きおろす茅葺きの入母屋造(いりもやづくり)の屋敷には、武士の日常を知ることができる食器類や道具、武具などが展示されています。
外堀の南側には、日本で現存する唯一の土塁で囲まれた馬出が残っています。
さらには、堀の水面一帯にはハス(蓮)が広がっているのが目を引き、固有品種である「篠山城蓮(ささやまじょうばす)」が7月中旬から8月初旬にかけて、花弁が少なく大ぶりの薄い桃色の花をつけて見頃を迎え、夏の風物詩として訪れる人たちを楽しませていると言います。
2006年(平成18年)から2018年(平成30年)にかけて堀から篠山城蓮が消滅していた期間があり、その主な原因に、幼体はミドリガメの通称でペットとして飼われ、成体は甲長30cm近くになり気性が荒く強い雑食性を持つ北アメリカ南部が原産のミシシッピアカミミガメがあげられており、飼育していたミドリガメが大きくなったことで手に負えなくなり堀に放流したと見られています。
2013年(平成25年)にハスの復活を目指して翌年から堀に生息するミシシッピアカミミガメやアメリカザリガニなどの外来生物の駆除が始まったことで、2019年(平成31年)には篠山城蓮の開花が見られ、2023年(令和5年)には以前のように堀の南側一面に篠山城蓮が広がり、再びハスの花が咲き誇る風景を取り戻すことができたと言います。
篠山城跡の外堀をぐるっと一周、東西南北にわずかに残る往時の面影を目にするだけでも、篠山城の周囲で人々が幾世代にわたって日々を暮らしていたのだと、ずいぶんと気持ちは高まります。
外堀の南側、円錐形のハスの花托が垂れて、大きな円形の葉が堀一面を覆う風景を眺めながら、桃色の篠山城蓮の花が広がっている風景はどのようだろうかと、デカンショ祭が開催される時に訪れては花の見頃が過ぎてしまうので、その前にどうしても来たいなと思ってしまいます。

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「丹波篠山 お茶栗さんしょ ヨイヨイ 野には黒豆 山の芋 ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
秋を迎えた10月初旬になると、丹波篠山市では真っ黒な黒大豆になる前の未成熟で柔らかい豆を収穫して枝豆として食べることができる解禁日が訪れます。
解禁日から三週間ほどのわずかな期間だけ収穫される黒大豆枝豆は、他の枝豆では味わえない食感と深い旨味を持っており、口にして虜となってしまった多くの人々が、秋の味覚として解禁日の訪れを心待ちにしていると言います。
収穫された時期によって豆の熟成度が違っており、10月上旬ではきれいな緑色をした若い豆は甘さは控えめでサクサクとした食感、サヤ(莢)が濃緑色となり豆が大粒に育つ10月中旬は甘みが出てホクホクとした食感、サヤは黄色っぽくなり豆は紫色から黒色がかる10月下旬になると強い甘みとモチモチとした食感と、見た目や味わいに変化が生まれてくるので好みが分かれ、どの時期の黒大豆枝豆を手にするのかは思いのほか大事なことのようです。
枝豆として収穫されない黒大豆はそのまま畑で熟成させ、11月下旬から手作業で葉だけを落としてさらに熟成を促し、12月に入りサヤがすっかり茶色になると株を刈り取り、いくつかの株を一組に逆さに立てる「島立て」をして天日干しで主に株元を乾かす予備乾燥させ、必要に応じて乾燥機等で仕上げ乾燥をしてから脱粒機にかけると、サヤからは真っ黒に成熟した黒大豆が取り出されていき、黒大豆の大きさや形、虫食いの有無などの一粒一粒の目視を含めた選別作業を経て、12月下旬には出荷されていきます。
また、一般的な黒大豆は花が咲いてから成熟させるまでの期間が約70日なのに対し、丹波篠山市の黒大豆は期間が長く、約100日をかけて粒が大きくなるよう成長させると言います。
「座禅豆 かたく煮るハ豆を布巾にてふきて生漿にて炭火にて煮るくろ豆ハ丹州笹山名物なり」(嘯夕軒宗堅「料理網目調味抄」)
丹波篠山市の黒大豆は、極めて大粒で球形、裂皮が少なく糖含量が高く、黒い皮の表面にろう粉(bloom)と呼ばれる白い粉が吹くのが特徴で、煮ても皮は破れずに粒がよく膨らみ、漆黒の艶をまとい、もっちりと柔らかい食感と上品な甘みを持つことから、正月のおせち料理に欠かせない煮豆に使う黒大豆のなかでも最上級として知られています。
「黒豆 丹州笹山よし 押て汁煑染」(嘯夕軒宗堅「料理網目調味抄」)
「黎豆 葉刀豆ヨリ大ニシテ 花深紫色美シ 穂ヲ成テ生ズ 莢ハ蠶豆ノ莢ニ似テ 大ニシテ毛アリ 熟スル寸ハ 黑色ニシテ筋見ル 豆ハ蠶豆ヨリ大ニ 刀豆ヨリ小シ 白色ニシテ灰斑 或ハ灰色ニシテ黑斑 數品アリ」(小野蘭山「重修本草綱目啓蒙」)
丹波篠山市で黒大豆が江戸時代から栽培されていたことは、1730年(享保15年)に発行された料理法などを解説する「料理網目調味抄」に「黒豆 丹州笹山よし」と記されていることから分かり、それ以前の1716年(享保元年)に篠山藩の儒学者である松崎蘭谷(1674-1735)が著した「篠山封疆史」には、篠山藩の土産として「木綿布、紙、黎豆、赤豆、茶、栗、…」と記されていますが、黎豆が黒大豆のことを指しているのかは分かっておらず、本草家の曾占春(1758-1834)らが1804年(文化元年)に編纂した「成形圖說」には黎豆の絵図が描かれていますが、八升豆(ハッショウマメ)によく似ていることから黒大豆とは外観の特徴が異なっています。
1697年(元禄10年)に本草家の人見必大(1642頃-1701)が著した「本朝食鑑」には、黎豆は八升豆として黒大豆と分けて記し、1709年(宝永6年)に本草家の貝原益軒(1630-1714)が著した「大和本草」には、大豆の項目に「黑大豆大小アリ性味最ヨシ味曾ニシテ味ヨシ」と記し、黎豆は又の名を貍豆(狸豆)として分けてあります。
これらのことから、篠山封疆史に記された黎豆が、黒いを意味する「黎」から黎豆を「レイズ」または「くろまめ」と読んで黒豆を指しているのか、黒豆の当て字として黎豆と記したのかは未だ不明とされています。

「黑大豆ノ原產地ハ南河內村ノ內川北村ノ一部分ニシテ今ヲ距ルコト約百六十年前領主靑山家ニ於テ郡內農產貢物中特ニ黑大豆ノ優良ナルヲ賞揚シ庄屋ニ命ジテ特選黑大豆ヲ納入セシメ更ニ靑山家ニ於テ精選シ之ヲ幕府ニ献納セラレタリ。是ヲ特產黑大豆献納ノ始トス。」(私立多紀郡教育会 編「多紀郡誌」)
丹波篠山市が誕生する以前の篠山盆地の一帯が多紀郡と呼ばれていた頃、町村制によって1889年(明治22年)に多紀郡南河内村へ含まれる前の川北村の一部では、黒大豆の栽培が江戸時代の中期には始まっていたと1911年(明治44年)に編纂された「多紀郡誌」に記されています。
海洋から離れた内陸性気候を持つ篠山盆地は、降水量が少なく乾燥傾向で、大きな川が流れておらず、さらに周囲に連なる山々が低く雨水を集める面積が小さく、農業用水の確保に困難な土地であったため、江戸時代の初期には多数のため池が作られ、ため池のない地域での水田は冬でも水を張ったままにする冬期湛水を実施して田植え時の水不足に備えていたと言います。
また、古代において湖だったことから不透水性の粘土質な水はけの悪い土壌が広がっており、盆地であることから地下水位が高く、篠山盆地にある水田の多くは湿田状態でした。
湿田ではあるが常に水不足だったことから、すべての水田で稲作を行うことができずに、いくつかの水田では導水せずに稲作を行わない「犠牲田(ぎせいでん)」とし、稲作の代わりに畑として作物を栽培する「堀作(ほりづくり, ほりさく)」が行われ、水不足を克服するための堀作は、湿田の湿った土壌を乾燥させるために、高畝に土を掘り上げる必要があったことからそう呼ばれ、集落での話し合いのもと順番が決められており、栽培作物として篠山藩からは年貢米に代わる大豆類が求められていました。
特に水不足が深刻で犠牲田の面積が大きかった川北村の堀作として栽培が始まったのが黒大豆であり、川北村の黒大豆は年貢米の一部として納められ、味の優れていた川北村の黒大豆は篠山藩から幕府に献上されたことから、やがて江戸の商人たちにも「川北黒大豆」として知られるようになったと言います。
「有功二等 大豆 波部黑 波部本次郎 品質善良粒形匀一ニシテ乾燥亦宜キニ適ヘリ以テ其撰種栽培ノ勞ヲ見ル」(第四回內國勸業博覽會襃賞證)
「有功二等賞牌ヲ受ケタルノミナラズ當時出品ノ黑大豆ハ宮内省ヨリ御買上ゲノ光榮ヲ得タリ。種類ニハ波部黑大豆、金時黑大豆一名八黑、霜降白大豆一名腹切大豆ノ三種アリテ波部黑ハ普通ノ大豆ヨリ一石ニ付貳圓餘ノ高價ニ買取ラル。」(私立多紀郡教育会 編「多紀郡誌」)
篠山藩はより優れた黒大豆の栽培を奨励し、1831年(天保2年)に四代藩主の青山忠裕(1768-1836)より黒大豆の品種改良を命じられた日置村の大庄屋である波部六兵衛は、さまざまな黒大豆が栽培されている中で優れた在来種を選び出す選抜育種に取り組み、その後に志を継いだ子の波部本次郎(1842-1916)が1871年(明治4年)に大粒の黒大豆の一品種を選び出して「波部黒(はべくろ)」と命名し、日置村を中心に各所の農家に配布して栽培を勧め、波部黒は川北黒大豆に比べて粒が大きくて収量も1.2倍ほどになったことから、多くの農家に受け入れられていったと言います。
1895年(明治28年)に京都市で開催された第四回内国勧業博覧会において、波部黒は4,114品が出品された大豆の中の優良五品に選ばれ、名誉を最高位にした進歩・妙技・有功・協賛の四賞に三等までの等級と下位の褒状を含めた六つの賞が設けられた中で「有功二等」を受賞し、宮内省お買い上げの光栄を得ます。
「多紀郡黑大豆ノ販路ハ東京大阪京都地方ニシテ收納期ニ至レバ京阪地方ヨリ多數ノ商人入込ミ各農家ニ就キテ買取ル有樣ナリ。但郡內ノ耕作區域狹小ニシテ多數ノ需要者ノ希望ニ應ズルコト能ハザルヲ遺憾トス。」(私立多紀郡教育会 編「多紀郡誌」)
多紀郡で生産される波部黒と川北黒大豆のどちらも名声を馳せたが、耕作区域は狭いため生産される黒大豆は少なく、また重要なタンパク源として自家で消費されるため、東京や大阪などに流通に出される黒大豆はわずかな量であり、商人が農家に出向いて買い集めるほどだったと言います。
1934年(昭和9年)になると、日置村と川北村の小地域で生産される波部黒と川北黒大豆の二つの黒大豆の銘柄を「丹波黒大豆」の名称に統一し、広域的な銘柄として周知を進めることになっていきます。
1941年(昭和16年)に、在来種である波部黒の品種比較試験を行い、最も優良であった黒大豆を「丹波黒(たんばぐろ)」と命名して奨励品種とします。
1989年(平成元年)に波部黒から優良な種子を選抜し「兵系黒(ひょうけいぐろ)3号」と命名され、2023年(令和5年)には猛暑などの気候変動や病害に強く収量性のより高い品種が選抜されて「兵系黒6号」と命名されたことから、波部黒・川北黒大豆・兵系黒3号・兵系黒6号の優良系統が「丹波黒」と総称されて丹波篠山市で栽培されています。
2024年(令和6年)には成熟が早く倒伏に強い品種である「兵系黒7号」が選抜されているように、大きさや味などのさらなる品質や特性を求めるだけでなく、気候変動などの影響による収量の低下や病害などに対応できる強い品種が常に求められています。
江戸時代の中期に年貢米の代替作物として栽培が始まった枝豆用を除く丹波黒の栽培面積は、1818年(文政元年)に約43ha、1871年(明治4年)の廃藩後は納入先を失ったことで急激に減少して1872年(明治5年)にはわずか約1haとなりますが、波部黒の誕生による需要の拡大によって1927年(昭和2年)には約20ha、米作が奨励されたことや戦後の食糧難のため米を増産したことで1960年(昭和35年)頃までは約10ha、その後は食糧事情の好転によって1971年(昭和46年)には約30ha、1970年(昭和45年)から減反政策が始まったことから1978年(昭和53年)に約96haとなり、1981年(昭和56年)に米の需給の調整を図り大豆や飼料作物などへの転作を支援する「第二期水田利用再編対策」が始まったことから、2000年(平成12年)に約492ha、2018年(平成30年)に約557haと兵庫県全体の約1,326haの中で約42%を占め、西日本を中心に広がる丹波黒の全栽培面積の約3,045haにおいても約18%を占めるほどの規模を持ち、2019年(令和元年)には約580haで枝豆用を含めると丹波黒の栽培面積は約777haとなり、2022年(令和4年)になると枝豆用を含めて約785haにまで達します。
しかしながら、2024年(令和6年)は枝豆用を含めた丹波黒の栽培面積は約747haでしたが、2025年(令和7年)では約680haと大きく減少しており、これは2024年(令和6年)が猛暑と少雨による黒大豆の成長が思わしくなかったことや米不足による米の買い取り価格が高値になったことから、いまだ手作業が多く天候に影響されやすい黒大豆の栽培を減らして稲作を増やしたことによると考えられています。
秋の丹波篠山市で見かける枝葉が茂る畑では、300年ほど前より黒大豆が栽培されており、その歩みにおいて地域の人々が協力しあって支えあう風土を生み出す知恵と、より良い品種を求める工夫、それらが組み合わさったことで他の追随を許さない高い品質を持って生み出される黒大豆は、その美味しさを知ってしまった多くの人々を惹きつけています。
また、黒大豆は同じ場所で栽培を続けると生育が悪くなるため、一定年数ごとに水田と畑の状態を繰り返す田畑輪換を行うことから、これまでの長い年月の中で場所を変えながら栽培され続けていたのかと思うと、黒大豆の畑そのものにも何やら蠢く生命を感じる気がします。

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「オラが殿さは 六万石よ ヨイヨイ 今じゃのどかな 城下町 ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
篠山城跡の東南には小川町と河原町といった旧商家町が、東西約700mの通りに沿って江戸時代の末期から昭和の戦前期の千本格子や荒格子を持った白壁の町屋や土蔵などが建ち並び、畳店やカフェ、旅館や陶器店など、どのような店かと興味津々で足を踏み入れながら古い町並みを楽しむことができます。
河原町の西端には、江戸時代に建てられ醤油商を営んでいた妻側(棟に直角の面)に入り口を設けて正面とする妻入の二階建の西坂家住宅や、その隣に続く明治時代に建てられた川端家住宅は妻入の建物がほとんどの河原町の通りの中でも珍しい平側(棟に平行の面)に入り口を設ける平入の木造二階建であり、どちらの建物も内部は非公開なため通りからの外観を伺うことしかできませんが、出格子(でごうし)や虫籠窓(むしこまど)など町屋を象徴する意匠を目にするだけでも当時の情緒を感じられます。
河原町の南側の裏道(土手裏)には篠山の怪談七不思議の一つ「土手裏のおちょぼ」の話が伝わっており、夜の藪に覆われた暗い裏道を歩いていると、ボサボサに伸びた髪をしたおちょぼ(小さな女の子)に出会ったので、つい何処に行くのかとおちょぼに声をかけてしまったことで、振り返ったおちょぼの顔は夜目でもはっきり分かる目も鼻もないヅンベラボウ(のっぺらぼう)だったと言います。


「夜霧こめたる 丹波の宿の ヨイヨイ 軒におちくる 栗の音 ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
篠山盆地東部の山間部には、篠山と京都を結ぶ街道に沿って宿場町として整備され発展した福住(ふくすみ)の町並みと農村集落が周囲に広がっています。
山間の田畑と茅葺き平屋建ての農家、街道の妻入の瓦葺き二階建ての町家などが建ち並ぶほのぼのとした景色の中、カフェや雑貨店、工房など移住者によって営まれている多種多様な店舗が目を引きます。
福住の町並みの西外れには、樹高約33m・幹周約8.4m、樹齢700〜800年の杉の大樹である「安田の大杉」がそびえ立っています。
遠くから見ると森のような様相なことから「甚七森(じんしちもり)」とも古くから呼ばれていますが、甚七とは誰なのかは分かっておらず、夜警や火事の番に当たった番太(ばんた)ではないだろうかとも伝えられており、誰か分からぬ甚七なる人物の失われた物語がここにあったのだろうかと大樹を見上げて思いにふけってしまいます。
また、街道を行き交う旅人たちの目印にもなったであろう甚七森の周り一面が、竹藪に覆われていた時代があったとも言います。
福住の町並みの北側には、禅昌寺の境内に立つ供養塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)にまつわる「白馬の半左衛門」の話が伝わっています。
江戸時代の中期、福住に庄屋を務めていた白井半左衛門という人がおり、彼は賢く剛直だったことから、良いと思ったことは自説を曲げずに実行してしまう人物でした。
この頃の多くの年で、天候が悪く米ができなかったことから年貢減免などを要求する強訴(ごうそ)が頻繁に起きていました。
そこで、白井半左衛門は川の上流から水を引いて福住の家並みの前を流すことを計画し、これは万一火災の場合には消火水になると考えて周囲に相談することなく工事を始めてしまいました。
これを聞いた大庄屋の荻田三太夫は白井半左衛門の勝手な振る舞いに怒り、篠山藩に訴えたことで白井半左衛門は死罪となり、1731年(享保16年)に「諸人に喜んで貰いたい一念であったが斯くなる上は是非もない。今に見よ災害のあった時に思い知るべし。」と言い残して世を去りました。
白井半左衛門の最期の言葉の如く、十七年後の1748年(寛延元年)に大火があり五十二軒が次々と燃えていき、その炎の中で白馬にまたがった白井半左衛門が走り回る姿を見た者が多数現れたことから、村中は大騒ぎとなりました。
このことから白井半左衛門の成仏を願った村人によって供養塔が立てられましたが、それからも村は幾度となく災厄に見舞われ、1809年(文化6年)の大火では八十三軒が被災する大災厄に遭いますが、村では供養塔である宝篋印塔の周囲を掃き清め花を手向けることで、みなが戒めあって火の用心に努めたと言います。
初めて足を踏み入れた土地、そこにまつわる伝承や逸話に思いがけず触れると、古い建物や古樹などの遺物だけではない、そこには顔も名も残らない人々が確かに息づき、暮らしていたことを感じ取ることができ、現代にまで伝えられることのない物語もたくさんあったのだと、思わずにはいられません。

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「丹波篠山は、誰もが心安らぐ『日本のふるさと』でありたい。美しい暮らしが息づく『農の都』でありたい。緑の山々、集落と田園と里山、城下町や宿場町や陶器町の町並み、そして祭り。」(丹波篠山市景観条例 前文)
秋冷の候、朝日を浴びた丹波篠山市に広がる畑をのぞくと、朝露に輝く黒大豆が豊かに実っているのを目にすることができます。
冷たい朝の空気に包まれると、この篠山盆地が生み出す昼夜の寒暖差が、日本随一と称される丹波篠山市の黒大豆を育てていることを実感でき、寒さによる身体の震えが心地よく感じられてきます。
朝早くに市場が開き、丹波篠山市の秋の特産物である栗や松茸、そして黒大豆枝豆のセリ(競り)が始まります。
通常は週に二回のセリが行われますが、毎年10月5日前後に解禁日が設けられている黒大豆枝豆が市場に現れる期間は毎日セリが行われるようになるといい、もし解禁日を迎える以前に見かける黒大豆枝豆があった場合は丹波篠山市で栽培されていない別の黒大豆枝豆になるので、丹波篠山市で栽培される黒大豆枝豆の解禁日がいつなのかは予め調べておかなければなりません。
「江戸ハ菽ノ枝ヲ去ズ賣ル故ニ枝豆ト云 京坂ハ枝ヲ途キ皮ヲ去ズ 故ニサヤマメト云」(喜田川守貞「守貞漫稿」)
解禁日を迎えた丹波篠山市の黒大豆枝豆は、サヤ(莢)が枝についた状態で束ねられており、この枝付き束の姿を目にしたことで枝豆の名称の由来について納得させられます。
サヤを枝につけた枝付き束の黒大豆枝豆は、乾燥しやすいサヤを乾燥させずに鮮度を保つことができる古くから取り引きされていた姿ですが、近年では手間を省きたい購入者の要望から、サヤを枝から外して袋入りにされた黒大豆枝豆も取り引きされるようになったと言います。
枝付き束、袋入りのどちらの黒大豆枝豆を手にするか、サヤを枝から一つ一つ外して手間をかけるのも、三週間だけ市場に出回る丹波篠山市の黒大豆枝豆を味わう儀式とするのも一興に思います。
それよりも、いつ収穫したのか、どの熟成度合いの黒大豆枝豆が美味しいのか、遠方から来て丹波篠山市へ何度も訪れることが難しい者にとって、その判断をするには大きな課題となります。
丹波篠山市に住むある一人の女性は、秋になると黒大豆枝豆の解禁日が待ち遠しく、その日を迎えて手にした若くきれいな緑色をした黒大豆枝豆のさっぱりとした味わいをまずは楽しみ、それから一日一日とサヤが濃緑色から黄色っぽくなって熟成していく黒大豆枝豆を知り合いの生産者からいただいたり、直売所やお店で買ったり、その甘みと食感の変化を枝豆や豆ご飯にして、束の間の秋の味覚を楽しむそうです。
また、どの熟成度の黒大豆枝豆もそれぞれに特徴があって美味しいのは違いないが、一般的にはサヤが鮮やかな緑色をした白毛豆(青豆)の枝豆を口にすることが多いので、品種の異なる黒大豆枝豆を求めて初めて丹波篠山市を訪れる人にとって、熟成が進んだことでサヤが黄色っぽくなってしまった黒大豆枝豆は見栄えが悪く、サヤの中の豆も黒みがかっていることから品質が落ちているように感じて、手にすることを躊躇ってしまうようなので、ぜひ熟成した黒大豆枝豆を食べてみて、普段口にする枝豆との違いを知ってほしいとも言います。
あえて時期を選ぶならば、10月中旬から下旬にかかる頃合いの黒大豆枝豆はほどよい甘みとホクホクした食感で、どのように食べても満足できますよと至福の笑みを見せて答えてくれる姿に、きっと今晩はお酒を片手に枝豆か豆ご飯を楽しむのだろうなと勝手な想像をしてしまい、とても幸せな気分になります。

「丹波篠山 その山奥で ヨイヨイ 一人米つく 水車 ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
丹波篠山市の中央部の篠山城跡から北東の山間へ向かうと、そこには谷筋に沿って築150年を越える茅葺きの民家など十二軒の家屋が集まった丸山地区の集落があり、日本の懐かしさを想起させる農村の風景が広がっています。
高齢化や一時期は十二軒のうち七軒が空き家となるなど集落が消滅する危機にまで瀕しますが、2009年(平成21年)に家屋を宿泊施設として再生したことを期に、集落に住む人たちのもてなしや農林体験などが注目されたことで名が知られるようになり観光客が相次いで訪れるようになっていったことで集落は活性化し、山裾に多かった耕作放棄地もさまざまな取り組みによって2015年(平成27年)には解消していったと言います。
篠山城の堀に注がれる黒岡川の水源地に近い丸山の集落の奥深くには、水面に映しだす木々の風景が美しい葆澤池(ほうたくいけ)が現れます。
この池は、旱魃(干ばつ)による領民の困窮を憂いた二代篠山藩主の青山忠高(1734-1816)が1773年(安永2年)に造成した灌漑用のため池で、1974年(昭和49年)から2008年(平成20年)までは周辺集落への上水道の水源地として活用されていました。
現在は役目を終えた葆澤池ですが、紅葉の季節になると色づいた周囲の木々を水面に映しだす姿もまた美しいと言います。
丹波篠山市の文化や町並みは京都からの影響を色濃く反映し、南西部の上立杭(かみたちくい)は江戸時代の後期に京焼系の意匠や技法を取り入れるなどして発展した日本六古窯の一つに数えられる丹波焼(立杭焼)の里であり、1895年(明治28年)に傾斜地を利用して築窯された長さ約47m・九袋の焼成室を持つ登窯が現存しています。
北西部には山間地の宿場町だった追入(おいれ)や南東部の八上城のあった高城山の麓の八上上(やかみかみ)などの街道集落や、聖徳太子(574-622)が開基したと伝わる福徳貴寺がある北部の坂本などの農村集落には数多くの茅葺きの民家が残り、山々に囲まれた田畑の所々でも古墳など数多くの遺跡に出くわすことから、それらを巡りつつも、現代に生きる人々の営みを含めた景色をゆっくりと堪能するのには、一日やそこらではとても足りません。
「デカンショデカンショと 唄うて廻れ ヨイヨイ 世界いずこの果てまでも ヨオイヨオイ デッカンショ」(デカンショ節)
丹波篠山市を気ままに散策していると、所々で黒大豆枝豆の直売所が道端や軒先に出ていることに気づきます。
直売所では、解禁日を迎えた黒大豆枝豆を買い求める夫婦が枝付き束を手に品定めをしながら話し込んでいたり、たくさんの枝付き束を購入した大学生の女性二人が直売所の片隅でハサミを使って枝からサヤを切り離して袋詰めしていたりと、秋の訪れと黒大豆枝豆を取り巻く些細な情景を見かけることができます。
黒大豆枝豆を購入しようと道沿いにある大きめの直売所に入ると、販売所も兼ねた作業場で収穫したばかりの黒大豆枝豆の枝についている葉をハサミで落としている場面と、枝から外したサヤを傷などの痛みがないものとの選別をしている場面に出くわし、淡々と作業をこなしている女性たちの手さばきの良い姿に目が釘付けになってしまいます。
猛暑や少雨などによって黒大豆枝豆が不作になり、近年は秋に収穫できる量がずいぶんと減ってしまったが、対策として水やりの回数を増やすなど栽培のさまざまな工夫をしたところ、今回は収穫できる量が回復したことから、ようやく深刻だった状況を克服できつつあると言います。
収穫してから鮮度の落ちやすい黒大豆枝豆は、ハサミや手を使って素早く出荷までの作業をしなければならず、時間がいくらあっても足らずたいへんだと、作業場の奥に葉のついた黒大豆枝豆の枝がまだまだ積み上がっているのを横目に苦笑しているのもまた、趣き深いものです。
ふと空を見上げると、日がずいぶんと西へと傾いており、辺り一帯がほのかに黄色みを帯び始めています。
周りの山々は暗く沈み、道路には帰宅途中の車が増え、田畑のあちこちで何やら白い煙があがり、その白い煙を突っ切るかのように田んぼ道を自転車で走る二人の学生の姿が見えており、今日という一日がもうすぐ終わるのだと感じさせてくれます。
丹波篠山市に日が昇り沈みゆくまでの間に、語り継がれる歴史や受け継がれる文化を知れただけではなく、秋の実りにさんさんと降りそそぐ朝の陽射し、しんと冷える空気、ひやっと湿る土、それらも直に目にして肌で感じられたことで、気がつけば両手で抱えるほどに購入していた黒大豆枝豆が、今宵に食する究極の一品となることは約束されています。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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