
「天皇、倭姫命ヲ以ツテ御杖ト為シテ」(垂仁廿五年紀「日本書紀」)
奈良県の東端に位置し、大和国と伊勢国を結ぶ伊勢本街道が通る、天照大御神の鎮座地を求めて旅した倭姫命ゆかりの山村である『御杖村(みつえむら)』。
1889年(明治22年)の市町村制施行によって、桃俣・土屋原・菅野・神末の四村が合併し御杖村が誕生します。
海抜500mほどの山間地にある御杖村は、面積の約88%を山林が占めており、奈良盆地に比べて年平均気温は2度ほど低く、雨量も多いうえ、冬季には積雪も見られるなど寒暖差の大きい山地特有の気候にあります。
古くから稲作を中心とした農業が営まれ、明治時代以降には葉たばこや養蚕による生糸の生産も盛んでした。
戦後には大規模な植林による林業や畜産へと産業が移り変わり、近年では稲作に加えて、寒暖差を生かしたほうれん草などの野菜栽培が盛んに行われています。
「一云 天皇 以倭姫命爲御杖 貢奉於天照太神 是以 倭姫命 以天照太神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之」(日本書紀)
第11代垂仁天皇(すいにんてんのう, 在位:BC29-70)は、皇女の「倭姫命(やまとひめのみこと, 倭比売命)」に天照大御神の鎮座地を探すよう勅命を下します。
倭姫命は天照大御神にお仕えする御杖代(みつえしろ, 御杖)として、天照大御神が祀られていた大和国の笠縫邑(かさぬいむら)を発ち、伊賀国、淡海国(近江国)、美濃国を経て伊勢国へ至りました。
伝承によれば、倭姫命はおよそ40年にわたって天照大御神の鎮座地を探す旅を続け、最終的に伊勢の地に皇大神宮(伊勢神宮内宮)が創建されたと伝えられています。
勅命を受けた倭姫命は、伊賀国へ向かう道中、この地に立ち寄って一泊したとも、あるいは行宮(あんぐう, 仮の御所)を設けてしばらく滞在し、天照大御神の鎮座地の候補地の一つとしたとも伝えられています。
その際、この地に杖を残したことから、村人たちは神の御杖として崇め、この地に社を建てて「御杖神社(みつえじんじゃ)」としたといわれています。
現在、この地は神末(こうずえ)と呼ばれていますが、その地名は、もとは神つ杖(かみつつえ)だったと考えられており、それが“かみつえ”となり、さらに音韻変化して“かんずえ” “かうずえ”を経て、現在の“こうずえ”へと変化したとされています。
天照大御神が伊勢国へ遷宮された後、神末村は神戸(かんべ)に定められ、神社領として明治時代初期まで五石五斗の貢米を伊勢神宮に奉献していました。
それから約1,900年後、神末村をはじめとする四村が合併して誕生した御杖村は、御杖神社にちなみ命名されたといわれています。

「神末ノ御杖神社ハ、姫ノ命ガ一泊サレテ杖ヲオキワスレテ立タレタ。ソノ杖ヲ、後デマツッタモノデアル。シタガッテ、地名ノ『神末』モ、モトハ『神杖』トカイタ。ソノ杖ハ、イマモ、神社ニアル。」(髙田十郎「なら」)
御杖神社は、川のせせらぎが聞こえる、杉の大木に囲まれた御杖村神末の地にひっそりと佇んでいます。
神明造の本殿には、久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比女神(やちまたひめのかみ)の三柱が祀られ、境内の入母屋造の拝殿の両脇には、上津江杉(かみつえすぎ)と呼ばれる、樹齢六百年以上と伝わる二本の御神木がそびえ立っています。
この地は、もとは神杖(かみつえ)と呼ばれていたとされますが、“神”の字を用いるのは畏れ多いとして上津江(かみつえ)と表記するようになったといわれ、境内の石灯籠の銘文にも上津江村と刻まれています。

「姫石に 咲く花の白く あたたかし」(大西賢三)
御杖神社から北東へ伊勢本街道を進んだ先、隣県との境近くには、横たわる女性の臀部を思わせる巨石があります。
倭姫命がこの地で婦人病の快方を祈願したことから姫石(ひめし)と呼ばれるようになり、「姫石明神」として祀られています。
紅白の布を巨石の前の鳥居に吊り下げる風習が今でも残り、男女の思いごとや安産などにも霊験あらたかであるとされ、「姫石さん」の名で親しまれてきました。
木々の間から木漏れ日が差し込み、傍らを水が流れる一帯はコケやシダに覆われ、ひんやりとした空気に包まれています。
そのため、姫石明神の神域に足を踏み入れると、辺りとは隔絶された別世界へ迷い込んだかのような感覚を覚えます。
「村ノ東ヨリニ、倭姫ノ命ノ腰カケ石ガデテクル。道路上ノヤヤ右ヨリニ、ベタリト一ツダケ、スエタ様ニ横タハッテヰルノデ、髙サハ一尺弱、ヒロサハ、三尺ニ二尺四五寸グラヰデアル。」(髙田十郎「なら」)
姫石明神へ至る伊勢本街道沿いには、倭姫命にまつわる遺跡が点在しており、そのうちのいくつかは御杖村神末の敷津(しきづ)地域に伝わる七不思議の一つに数えられています。
その一つが、倭姫命が岩の上から中秋の名月を愛でたと伝わる「月見岩」です。
もとは大きな岩でしたが、長い年月を経て風化し、現在では腰掛けるのにちょうどよい高さになっています。
ここまでの道のりでひと息つき、月見岩に腰を下ろして空を見上げれば、今もなお倭姫命と同じ景色を眺めているような気持ちになれるかもしれません。
また、倭姫命が手を洗ったとされる霊泉で、日照りが続いても枯れることがないと伝わる「倭姫の手洗い井戸」や、姫石明神も七不思議の一つに数えられています。

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「半夏生 葉を白く染め 梅雨上がる」(山口青邨)
夏至をはじめとする季節を表す二十四節気には、さらに季節の移ろいを細かく表す七十二候があり、その一つ、半夏生(はんげしょうず)に由来する雑節が半夏生(はんげしょう)で、毎年7月2日頃にあたります。
その頃になると、葉を白く染める「半夏生(はんげしょう)」が、湿地や水辺などで見られるようになります。
ドクダミ科の植物である半夏生は、花弁や萼をもたない小さな花を咲かせ、開花期には上部の数枚の葉の表面が半分ほど白くなります。
その姿が白粉を半分ほどつけたように見えることから半化粧(はんげしょう)、また、葉の片面(表面)だけが白くなることから片白草(かたしろぐさ)とも呼ばれています。
半夏生の名は、雑節の半夏生の頃に花を咲かせることに由来するともいわれ、同じ読みの「半化粧」が転じたものとする説もあります。
同じ頃に花を咲かせる植物に、サトイモ科の半夏(はんげ)と呼ばれる烏柄杓(からすびしゃく)があります。
本来、「半夏生」という名は、この半夏が生ずる頃に由来するとされ、「(夏の半ばに)半夏が生ずる頃までに田植えを終えるよう」といわれるように、古くから農耕の目安とされてきました。
また、農作業の節目となる半夏生の頃には、田植えを終えた人々が数日間の休息をとり、地域ごとにタコやうどん、餅などを食べる特色ある行事食の風習が今も残っています。
現在では、見た目の美しさもあって、「半夏生」といえば葉を白くするドクダミ科の植物を指すことが多くなっています。
開花しても花が小さくて目立たない半夏生は、受粉を助ける昆虫を引き寄せるために葉を白くしていると考えられており、開花を終え、結実する頃には葉は白から緑へと変わっていきます。
近年では、生育地となる湿地や水辺などの減少に伴い、多くの地域で絶滅危惧種に指定され、その姿を目にする機会も少なくなっています。
7月の上旬から中旬にかけて、御杖村神末地区の山間にある岡田の谷には、約3,000㎡にわたって、葉を白く染めた半夏生が群生する様子を見ることができます。
谷へと続く少しぬかるんだ小道を抜けると、一面に白く染まった半夏生が目の前に広がり、まるで白い花が咲き誇っているかのような幻想的な光景に、思わず息をのみ、しばらくその場に立ち尽くしてしまうほどです。
岡田の谷の半夏生は、1970年(昭和45年)頃、水田を休耕する際に植えられたことが始まりとされています。
その後は所有者によって大切に管理され、その厚意により広く一般に公開され、毎年、多くの人々がこの地を訪れ、美しい景観を楽しんでいます。
2026年(令和8年)からは御杖村が直接管理することとなり、今後、この美しい景観を生かした新たな取り組みがどのように進められていくのか期待されます。
半夏生は奈良県でも希少種に指定されています。
2015年(平成27年)頃は、岡田の谷の半夏生の見頃は7月中旬から8月中旬頃でしたが、気候変動の影響からか、見頃は年々早まる傾向にあるといいます。
また、湿地帯に育つ半夏生の群生地では、イノシシなどが入り込んで地面を掘り起こすと、その跡に丈の高い雑草が繁茂し、景観を損ねる原因となります。
そのため、柵を設置するなどの維持管理が行われ、貴重な半夏生の群生地が守られています。
青空の下、深い緑を背景に、太陽の光を浴びて白く輝く岡田の谷の半夏生は、梅雨明けの訪れを告げるかのように谷を彩り、訪れる人々の心に深く刻まれる、御杖村を代表する夏の風物詩となっています。

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「お伊勢参りして こわいとこどこか かい坂 ひツ坂 鞍取坂 つるの渡しか宮川か」
御杖村には、東西約14kmにわたって山々を越え、大和国と伊勢国を結ぶ「伊勢本街道」が通っています。
この街道は、天照大御神の鎮座地を求めて旅をした倭姫命が歩いたとも伝えられていますが、いつの時代に開かれた道なのかは明らかになっていません。
古くは集落を結ぶ道であったことから、荘園時代には農民が年貢などを荘園領主のもとへ運ぶ道となりました。
その後、南北朝時代以降に伊勢参宮が盛んになると、多くの人々が往来する街道へと発展していきます。
西国有数の観音霊場である長谷寺と伊勢神宮をあわせて参拝する人々も多く、長谷寺と伊勢神宮を結ぶ道には、現在の曽爾(そに)村と御杖村の境に位置し、倭姫命の乗る馬の鞍が風で飛ばされたと伝わる鞍取坂(くらとりとうげ)をはじめ、飼坂(かいさか)、櫃坂(ひつさか)といった急峻な峠や、川の流れが激しい津留(つる)の渡しなど、旅人に恐れられた難所がありました。
参宮本街道とも呼ばれる伊勢本街道は、他の伊勢参詣路に比べて最短経路であったことに加え、倭姫命が歩んだと伝わる「神の御心に叶う道」として、多くの参宮者に利用されたといいます。
「又山こえて二里ゆけば 菅野の里也 こゝより多気へ四里ありとぞ 此あひだになん やまとと伊せの國ざかひは有ける」(本居宣長「菅笠日記」)
御杖村菅野地区は、かつて伊勢本街道の宿場町として栄え、多くの旅籠が軒を連ねていたといわれています。
菅野集落の入口には駒繋橋が架かっており、その名は、かつて倭姫命が橋の袂にあった杉の木に馬を繋いだことに由来すると伝えられています。
橋の傍らには、「左いせみち 右はせみち」と刻まれた道標と、1832年(天保3年)に建立された太神宮燈籠が佇み、往時の旅人たちが行き交った宿場町の面影を今に伝えています。
菅野(すがの)の地名は、倭姫命がこの地を通過した際、疲労に堪えかねて傍らの井戸の水を飲むと心身がすがすがしくなったこと、あるいは「すがすがしい野原だ」と称えたことから、清野(すがの)と呼ばれるようになったと伝えられています。
また、古くは酢香野とも記され、倭姫命に献上した酒が腐って酢になっていたことに由来するとも、スッポ田(酢壺田)で収穫した米で醸した酒を献上したことに由来するともいわれています。
その後、雅字(がじ, 当て字)として「菅野」の字が当てられ、現在の地名になったと伝えられています。
御杖村土屋原(つちやはら)地区の伊勢本街道沿いから少し外れた場所にある春日神社の境内には、樹齢四百年以上と伝わる大きなイチョウが枝を広げています。
普通の葉に混じってラッパのような筒状の葉をつけることから、ラッパイチョウ(喇叭銀杏)の名で親しまれています。
秋が深まると、黄金色の葉が境内一面を彩り、美しい景観をつくり出すといい、かつて伊勢本街道を行き交った旅人たちも、この鮮やかな秋の景色に足を止め、しばし見入っていたのかもしれません。
「桃の俣へははいるが大事 石のからとに錠がおりる」
西隣の曽爾村から鞍取坂を下った先の御杖村桃俣(もものまた)地区にあるオグラ山(鏡山)には石棺があり、その中に金色の鶏が納められているとされ、正月元旦にその鳴き声を聞いた人は死ぬという言い伝えが残されています。

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「御杖村の良いところは、何もないところ」
御杖村で暮らす女性に、この村の良いところは何ですかと尋ねると、「何もないところ」と、柔らかな笑顔で答えてくれました。
奈良県内の都市部から御杖村へ嫁いできたその女性は、日々の暮らしの中でストレスをほとんど感じることがなく、「こんな理想的な場所が県内にあったのか」と驚いたといいます。
子どもたちは思いきり声をあげて遊んでも周囲を気にする必要がなく、切り立った崖や深い谷もないため、豊かな自然の中でのびのびと育っていけるといいます。
そして、主要な道路はよく整備されており、村内には信号機のある交差点が二か所しかないため、不必要に車を停めることなく移動でき、冬には路面が凍結することもありますが、それ以外は生活するうえで大きな不便を感じることはないそうです。
「何もない村だけれども、この村での暮らしが合っているんです」
そう話す女性のくったくのない笑顔が、御杖村の魅力を何よりも物語っているようでした。
「はせ与是迄九里 是与宮川迄十二里廿一丁 為六十六部供養塔 願主 行悦」
御杖村を巡れば、伊勢本街道に沿って残る歴史の面影や、倭姫命の足跡に出会うことができます。
街道を少し外れ、杉の大木に囲まれた御杖神社を訪れれば、この村の始まりに思いを馳せ、悠久の時の流れを深く感じることでしょう。
街道をたどっていると、「追分の谷・うらの半夏生」と記された立札が立つ半夏生の群生地に、思いがけず出会います。
白く染まった葉に誘われるように、クマバチ(熊蜂)などの昆虫が次々と集まり、白い葉の間を忙しく飛び交っています。
ふと見上げれば、空が大きく広がり、遠くから鳥のさえずりが聞こえてきそうな豊かな自然に包まれます。
そんな御杖村の風景の中に身を置いていると、この村には人の心に残る何かがあるように思え、またいつか、この地へ引き寄せられるように訪れたくなります。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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