「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て」(幸若舞「敦盛」より)
深緑の木々に囲まれ、来訪者に対して立ちはだかる大手門跡から真っ直ぐに山腹まで伸びるおよそ180メートル・道幅およそ6メートルの両側を堅固な石塁で築かれた「大手道(おおてみち)」、現代ではそう呼ばれるその通りの石の階段は、かつての夢幻の城「安土城」の天主(天守)へと続き、かの城主の圧倒的な権威と威厳を今もなお感じさせます。
「是非に及ばず」
1582年6月21日、「明智光秀」(1528-1582)に襲われ「織田信長」(1534-1582)が炎の中で自刃する「本能寺の変」が起こりました。
このことにより、「天下布武(てんかふぶ)」を旗印に武力で天下を制し自ら頂点に立つ「織田信長」の野望は志半ばで潰えたことになります。
しかしながら、その時代の「天下」とは京都を中心にした五畿(山城、大和、和泉、河内、摂津)のことであり、五畿を制した者が「天下人」と呼ばれたと言われています。
本来の「織田信長」は、日本全土を「天下統一」することや五畿の「天下人」となることではなく、将軍や天皇の下に秩序だった平和な世を武を持って実現する「天下静謐(てんかせいひつ)」を目指し、その敵対勢力と戦うことを大義としていたのではないかと近年では考えられています。
「天下統一」ないし「天下静謐」、その実現のために「丹羽長秀」(1535-1585)に命じ標高199mの安土山に3年の歳月をかけて1576年に築城されたのが日本初の天主(天守)を持つと言われる「安土城」でした。
「安土城」の天主は五層七階(地上六階・地下一階)で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされてます。また、天皇を招き入れる「行幸の間」としての本丸御殿があり、「天下」を治める拠点としてその姿を戦国の世に知らしめました。
「定 安土山下町中 一、当所中為楽市被仰付之上者、諸座・諸役・諸公事等悉免許事. 一、…略…」
13ヵ条からなる通称「楽市令」が掲げられた安土城下の町には、武士が約2000人に商人が約7000人住んでいたと言われており、従来の慣習にとらわれない活発で自由な経済活動が実現していました。
1580年には布教のために来日していたイエズス会宣教師「オルガンティノ」(Organtino, 1533-1609)は、「織田信長」に願い城下に日本人の司祭・修道士を育成する学校である「セミナリヨ」(葡語:seminário)を建設しており、「織田信長」もここでオルガン(パイプオルガン)の音に耳を傾けた言われています。
「七月十五日、安土御殿主ならびに惣見寺に挑灯余多つるせられ、御馬廻之人々新道江之中に舟を浮かべ手々に讀松とぼし申され、山下かがやき水に移り、言語道断、面白き有様。見物群衆に候なり。」(太田牛一「信長公記 巻十四」より)
1581年のイエズス会巡察使「ヴァリニャーノ」(Valignano, 1539-1606)が出立する「盂蘭盆(うらぼん:祖先霊を供養する仏事)」の夜、「安土城」の天主と城内の摠見寺(そうけんじ)にさまざまな提灯を吊るし、街路と琵琶湖に浮かばせた舟には松明の火を灯させました。
この様子は家臣「太田牛一」(1527- ?)が著した「信長公記(しんちょうこうき)」とイエズス会宣教師「フロイス」(Frois, 1532-1597)が著した「日本史」(葡語:Historia de Japam)に記されており、光が灯された夜の安土城一帯と琵琶湖に映りこむ美しく幻想的な光景は、城下の人々を大いに驚かしたことをうかがい知ることができます。
「織田信長」の志を示した「安土城」の天主は、「本能寺の変」の13日後に謎の出火で焼失します。
その後は、「織田信長」の後継などを決める「清洲会議」を経て、1583年の「柴田勝家」(1522-1583)との「賤ヶ岳の戦い」で勝利した「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」(1536-1598)がすべての実権を握ることになり、1585年に秀吉の姉の子「羽柴秀次(豊臣秀次)」(1568-1595)が安土山の隣地で標高283mの八幡山に「八幡山城」を築城したことで「安土城」は廃城となりました。
1940年(昭和15年)に整備を目的にした天主・伝本丸跡の調査が行われるまで、「安土城」は永い年月に渡り瓦礫と草木に覆われ棄てられていました。
厚い堆積土を除くと、天主跡からは111基の大きな礎石(そせき:建造物の土台として据える石)が往事そのままの姿で発見されました。
現在でも、発見時とほぼ変わらない状態で五層七階の天主を支えた場に立つことができます。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥」(松浦静山「甲子夜話」より)
残忍で冷酷な独裁者または魔王として現代にまで伝わる「織田信長」に対する印象は、江戸時代に入ってから民衆に植え付けられたと言われています。
それらの印象は、全てを火で焼き尽くし老若男女3000人以上を殺害したと伝わる1571年の「比叡山焼き討ち」が大きな要因となっており、1573年の「武田信玄」(1521-1573)との書簡のやり取りで、比叡山延暦寺の主「天台座主 信玄」と署名した「武田信玄」に対して、仏道の修行を妨げる神「第六天の魔王 信長」と署名をして返したと言われており、このことがより残忍な印象を後世に持たせることになりました。
1956年(昭和31年)以降に幾度か行われた「比叡山焼き討ち」に関する調査では、大規模な火事があったにも関わらず土の焼けた跡や人骨などの物的証拠が見付からなかったため、一部の地域を焼いただけで「織田信長」の残忍性を伝えるために内容を誇張したのではないかとも考えられています。
「藤きちらう れんれんふそくのむね申のよし こん五たうたんくせ事候か いつかたをあひたつね候とも それさまほとのハ 又二たひかのはげねすミあひもとめかたきあひた」
「今川義元」(1519-1560)との合戦では多くの家臣を失い涙した「織田信長」、浮気癖が治らない「羽柴秀吉」(渾名は禿ねずみ)の正妻「於祢(おね)」(? -1624)に宛てた手紙から読み取れる気配り、配下の武将に対して宛てた叱咤激励の数々の手紙、武勇の優れていることは武将のかがみでありまるで日の輝きが朝露を消すようだと記した「太田牛一」、よき理性と明晰な判断力を有し迷信的慣習を軽蔑した革命児と記した「フロイス」などの信憑性の高い歴史的資料を重視して「織田信長」に対するこれまでの認識をあらためようとする流れが進んでいます。
近年の歴史ドラマでは、心のうちを隠さず感情をさらけ出して演じる従来では考えられない「織田信長」の姿を目にするようになりました。
「うらみつる風をしつめて はせを葉の露を心の 玉みかくらん」(織田信長)
永遠に続くような石の階段を登って辿り着く「安土城」の天主跡には礎石のみが残るだけで、そこにそびえ立った五層七階の「安土城天主」の全容は未だ分かっていません。
しかしながらその全容を知る手がかりが残っており、「織田信長」が画家「狩野永徳」(1543-1590)に描かせ巡察使「ヴァリニャーノ」を通じローマ教皇「グレゴリウス13世」(Gregorius XIII, 1502-1585)に献じられた「安土城」とその城下を描いた「安土山図屏風」が、この世界のどこかに眠っていると言われ滋賀県ではその情報を7ヵ国語で世界に求めています。
浮生夢の如く駆け抜け炎の中に散った武将「織田信長」とその居城「安土城」は、戦国の乱世を物語り惑わす甘美な謎です。
いつの日にか真の姿を知り再びこの地を訪れれば、一段一段と石段を登るにつれて周りがしだいに400年以上前へと移り変わり、やがて時を超え現れる天主を見上げると、未来からの来客を満足げに出迎える彼を目にすることができるような気がします。
写真・文 / ミゾグチ ジュン