「たはやすき 恋のごとくに 梅雨茸」(小林康治)
しとしとと雨が降る或日、ベランダに置かれた柱サボテンの鉢に小さな梅雨茸が育っているのを見つけた。
「梅雨茸(つゆたけ・つゆきのこ)」は、梅雨の頃に生える食用にならないきのこ類の総称で夏の季語でもあります。
陰鬱な梅雨を表現していますが、思いがけず目にしたら嬉しいモノです。
なので、ちょこっと「梅雨」について調べてみました。
*
「五月雨を あつめて早し 最上川」(松尾芭蕉)
梅雨(つゆ)は、梅雨(ばいう)・黴雨(ばいう)・五月雨(さみだれ・さつきあめ)・長雨(ながめ)・荒梅雨(あらづゆ)・梅霖(ばいりん)・麦雨(ばくう)・芒種雨(ぼうしゅあめ)・水取雨(みずとりあめ)などとも呼ばれています。
遙か昔、中国では梅の実が熟す頃に降る雨のことを「梅雨(méiyǔ)」と呼んでいました。
また、もともとは「霉(méi)」(かび)が生えやすい時期の雨を「霉雨(méiyǔ)」と呼んでいたのを、同音のため語感が良く季節に合わせた「梅(méi)」を使い「梅雨(méiyǔ)」となったとも言われています。
「南京犀浦道 四月熟黄梅 湛湛長江去 冥冥細雨来 茅茨疏易湿 雲霧密難開 竟日蛟龍喜 盤渦与岸迴」(杜甫「梅雨」より)
盛唐の詩人「杜甫(とほ,Dù Fǔ)」(712-770)は、「梅雨(méiyǔ)」の詩を詠っています。
– 南京(成都)にある我が家(草堂)の前の道では、4月になると梅が黄色く熟している。長雨で長江は満々として流れ、細かな雨が降り続き空は暗い。草堂の茅葺きの屋根は雨が染み、雲や霧が深く垂れ込めて空は晴れない。こんな日を蛟龍(伝説の動物・水神)は喜んで、曲がりくねる岸に沿って渦を巻いていることだろう。[要約] –
*
「千峯の鳥路は梅雨を含めり 五月の蝉の声は麦秋を送る【千峯鳥路含梅雨 五月蝉声送麦秋】」(李嘉祐「和漢朗詠集」より)
日本に、「梅雨(ばいう)」という言葉が伝わったのは平安時代頃と考えられ、歌人「藤原公任(ふじわらのきんとう)」が撰び1013年頃に刊行された「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」に、「梅雨」の文字が含まれた詩の一説を見つけることができます。
また、日本でも「黴雨(ばいう)」と呼ばれていたのを、「霉」同様にかびを意味する「黴(ばい)」から同音の「梅(ばい)」に置き換わり「梅雨(ばいう)」となったとも言われています。
「おほかたに さみだるるとや 思ふらむ 君恋ひわたる 今日のながめを」(和泉式部「和泉式部日記」〔1008年〕より)
しかしながら、この時代は「梅雨(ばいう)」よりも「五月雨(さみだれ・さつきあめ)」と呼ぶことが一般的でした。
「太陰暦」(太陽太陰暦)での5月は、現代の「太陽暦」で言うところの5月下旬から7月中旬頃にあたります。
「卯の花を 腐す長雨の 始水に 寄る木屑なす 寄らむ子もがも【宇能花乎 令腐霖雨之 始水邇 縁木積成 将因兒毛我母】」 (大伴家持「万葉集」より)
奈良時代末期780年頃に成立した現存する最古の和歌集「万葉集」には、「卯の花腐し(うのはなくたし)」や「長雨」などがこの季節を表す言葉として使われており、詩歌・俳諧で「五月雨」などが季語として成立し使われるのは、平安時代以降と考えられています。
「卯の花腐し」とは、「五月雨」の異称で「卯の花」(空木:ウツギ)を腐らせるほど長く降り続ける雨を意味しています。
*
「さみだれや 大河を前に 家二軒」(与謝蕪村)
明治維新を経た明治5年(1872年)11月9日に、明治政府は従来の「太陰暦(天保暦)」を廃して「太陽暦」(グレゴリオ暦)を採用する改暦を布告し、「太陰暦」の明治5年(1872年)12月3日から「太陽暦」の明治6年(1873年)1月1日が始まりました。
この突然の改暦が、暦に沿って生活していた庶民や商工・農山漁村の人々だけでなく、季語を重視する詩歌・俳諧の世界などにも大きな混乱を招くことになりました。
そのようなことがあり、明治時代以降は「五月雨」に変わって改暦後の6月の長雨を「梅雨(つゆ)」と呼ぶことが定着していったようです。
*
「此月淫雨ふる、これを梅雨(つゆ)と名づく、又黴雨(ばいう)ともかけり」(貝原好古 編「日本歳時記」より)
「梅雨(ばいう)」が「梅雨(つゆ)」へと呼び方が変わったことは、「貝原好古(かいばらこうこ)」が編纂し1688年に刊行された「日本歳時記(にほんさいじき)」に「梅雨」が「つゆ」として記されており江戸時代には「梅雨(つゆ)」と呼ばれていたようです。
「或人云ク、梅雨ハ和歌ニイフ五月雨、中世ニハ墜栗花、今ノ俗ニ通油ト云」(蔀遊燕 編「民間年中故事要言」〔1697年〕より)
「梅雨」が「つゆ」と呼ばれる所以は、室町時代の1474年頃に刊行された国語辞書「文明本節用集(ぶんめいぼんせつようしゅう)」に、「墜栗(つゆ)」と記されており、1597年に刊行した「易林本(えきりんぼん)節用集」では長雨によって栗の花が墜(お)ちる頃を「墜栗花」と書いて「ついり」と記されています。
「ついくり」から「つゆ」へと変化して「梅雨」に当てられ「梅雨(つゆ)」と呼ばれ、「ついり」は「梅雨入り(つゆいり)」となっていったようです。
「降音や 耳もすふ成 梅の雨」(松尾芭蕉)
他にも様々な説があり、葉に落ちる「露(つゆ)」から連想されたや、梅の実が熟し潰れることから「潰ゆ(つゆ)」など、初夏の長い雨降りに関連した由来が「梅雨」にはあるようです。
*
「五月雨の 空だにすめる 月影に 涙の雨は はるるまもなし」(赤染衛門「新古今和歌集」〔1205年〕より)
梅雨の晴れ間「五月晴れ(さつきばれ)」、日差しの強い或日、ふと鉢に目をやると「梅雨茸」は微かな痕跡を残し、その姿は露と消えていました。
水気を失い乾いた鉢土に触れ、太陽が照る空を見上げ「出梅(しゅつばい)」の気配を感じると、もうじき訪れる暑い夏に何処へ旅に出ようかと浮き立ってしまいます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン