
「新宮よいとこ 十二社樣の セノヨイヤサノセ 神のましますよいところ エツサ/\ヤレコノサヒーヤーリハリ/\セー」(新宮節)
和歌山県東南端、日本最大の半島である紀伊半島の東南部に位置し、熊野信仰における中心的な役割を担い、川の参詣道と呼ばれる熊野川に接する『新宮市(しんぐうし)』。
太平洋に面し、大部分が山地に占められる新宮市は、太平洋を流れる暖流の黒潮の影響で年間を通じて温暖で雨が多いことから、豊富な水資源を持ち、豊かな森林が育まれる地です。
また、和歌山県・三重県・奈良県にまたがって流れ、隣県との境界にもなっている熊野川は、奈良県中央部の標高1,719mの山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を源に山間部を流れ、太平洋へと注がれる全長183kmの新宮川水系の一級河川となっています。
「熊は隈にて古茂累義にして山川幽深樹木蓊鬱たるを以て名づくるなり」(紀伊續風土記)
紀伊半島の南部は熊野と総称され、熊は僻地を意味する隈に通じることから、奥まった鬱蒼とした森林に覆い隠される地を指しており、さらには死者の霊が籠もる地とも、日本列島の成り立ちが記された国生み神話に登場する伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の妻である伊弉冉尊(いざなみのみこと)が籠もった地でもあるとも言われ、自然信仰の霊場として人々の尊崇を集めています。

「十二代景行天皇 五十八年二月にあふみの穴穗宮にうつりにき くま野の新宮はこの時にそはしまり給へりし」(水鏡)
熊野川の河口付近の右岸には、主祭神として熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ, 伊弉諾尊)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ, 伊弉冉尊)の夫婦神を祀る「熊野速玉大社」があります。
景行天皇(在位 71-130)の時代に熊野速玉大神と熊野夫須美大神、そして家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)を祀る新たな宮が造営され、その宮は「新宮」と称し、亡くなった妻である伊弉冉尊を追って黄泉の国へ訪れた伊弉諾尊が吐き出した唾(つば)から生まれた速玉之男神の名を社名としたことが熊野速玉大社の始まりと伝わっています。
また、造営によって生まれた新宮の名は現在に至る新宮市の由来となっています。
平安時代中期になると、それぞれ独自の自然信仰を行っていた本宮(熊野本宮大社, 現在の田辺市)と新宮(熊野速玉大社)、そして那智(熊野那智大社, 現在の那智勝浦町)の三社が合わさったことで熊野三山と総称され、神と仏が同一視される神仏習合による本地垂迹思想により、本宮の主神の本地仏(本来の仏の姿)は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音として、本宮は来世を救済し、新宮は前世の罪を浄化し、那智は現世の縁を結ぶと言われるようになります。
「熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜べ若王子」(後白河上皇 編「梁塵秘抄」)
本宮・新宮・那智の熊野三山を巡ることで過去から現在、そして未来に至るまでの加護を得ることができることから、907年(延喜7年)の宇多上皇(867-931)が熊野三山を参詣する熊野御幸をきっかけにして皇族や貴族の熊野詣が始まり、やがて熊野三山の三社の神々である熊野三所権現を崇める熊野信仰と念仏を唱え極楽浄土への往生を願う浄土信仰が結びついたことで、武士や庶民の間にも熊野詣が広まっていきました。
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」(後白河上皇 編「梁塵秘抄」)
熊野三山を参詣する道として紀伊路や伊勢路、小辺路といった参詣道が険しい山中に開かれ、熊野は身分や性別、信不信や浄不浄を問わず大きく門戸を開いたことで鎌倉時代以降には多くの参詣者が訪れるようになり、先達(修験者)を道案内人に、白装束に身を包んで切れ目なく列をなして歩く参詣者の様子は「蟻の熊野詣」と評されていました。
都からだと往復で約600kmの道のりを約1カ月かける熊野詣ですが、後白河天皇(1127-1192)は二条天皇(1143-1165)に譲位し、後白河上皇となった以後は1160年(永暦元年)から1191年(建久2年)までに34回(33または32回とも)もの熊野御幸を行いました。
これは、多忙な天皇の位を退いて上皇(太上天皇)になったことで、権力だけでなく自由を得て、幾度となく熊野三山への参拝ができるようになったからだと言います。
「十七日 夜雨降 今朝猶陰風甚寒 明日新宮下向 舩更以無之云々 御所召以下皆闕如云々」(藤原定家「熊野道之間愚記」)
熊野川の中流域にある本宮は、1889年(明治22年)の大雨による洪水で社殿が流される以前は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれた三本の川が合流した中州にあり、その姿は江戸時代後期の「熊野本宮社頭図」に周囲の景観ともに描かれています。
皇族や貴族たちは本宮を参拝した後、小舟に乗って熊野川を下り、下流河口域の新宮を参拝し、徒歩で海岸線に出て那智川に沿って那智大滝が流れる那智を参拝し、帰りは再び新宮を経て熊野川を小舟で遡上(そじょう)して本宮へと戻り、都へ帰って行ったと言います。
小舟を使って本宮と新宮を往来することから、熊野川は「川の参詣道」と呼ばれていました。
熊野川には崖に沿った細い道もあり、川端街道(川丈街道)と呼ばれ、庶民はこの崖道を歩いて往来していました。
1201年(建仁元年)に行われた後鳥羽上皇(1180-1239)の4回目の熊野御幸に供奉した歌人の藤原定家(1162-1241)は、宿所や新宮へ向かう舟の手配、食事の準備、そして歌会の講師をこなすなど休む暇もなく、疲労で病に陥り道中では気を失うほどだった22日間の熊野御幸の裏方を日記に記しています。
「千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る」(藤原定家「拾遺愚草」)
熊野速玉大社の境内に植わる高さ約18mの常緑高木のナギ(梛)は、1159年(平治元年)に熊野三山の造営奉行を務めた平重盛(1137-1179)が社殿の落成を記念して手植えをしたと伝わっています。
古くから熊野の神々を象徴するナギは、凪(なぎ)に通じることから航行の安全、葉を笠に付けたり懐中に納めて参詣の道中の安全を見守るとして尊ばれ、複数の雄株が一つとなって大樹を成している崇高な姿はまさしく神が宿る木だと感じさせてくれます。
「かぎりあれば 萱が軒端の 月も見つ 知らぬは人の 行く末の空」(後鳥羽院「遠島百首」)
1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が鎌倉の執権である北条義時(1163-1224)と対立して大敗した承久の乱によって朝廷の権威が失墜したことで武家が台頭することになり、朝廷を監視する六波羅が都に置かれると、その後に後嵯峨上皇(1220-1272)が熊野御幸を2回行いますが、1281年(弘安4年)の亀山上皇(1249-1305)の熊野御幸を最後に行われることはなくなります。
宇多上皇から始まった上皇または法皇(太上法皇)による熊野御幸は、亀山上皇までの約374年間に100回余りを数えました。
室町時代以降の戦国期に入ると、戦乱の拡大による交通網の不通によって熊野詣をする人が減り、道案内人で宿所の手配などをした先達(修験者)が土着化(村落への定住)していったことなども要因となり、人々が熊野へ訪れる熊野詣は衰退していく一方で、先達が代わりに参詣する代参が行われていたと言います。
江戸時代になると、紀州藩が参詣道を街道として整備し、また難所を迂回する街道を新たに設けたことで、武士や商人などの人々や荷物が往来する交通路として利用されるようになります。
また、五街道などの街道が日本全土で整備され、人々の暮らしに余裕が出てきたことで神社や寺への参詣が一般化すると、伊勢神宮を参詣する伊勢参りを終えた旅人の一部が南方の熊野を目指し、西国三十三所巡りの第一番札所である那智の青岸渡寺に向かい、観音菩薩の慈悲の心に触れ、救済や極楽往生を願う巡礼と合わせて、熊野三山に参詣したと言います。
しかしながら、江戸時代後期になると紀州藩で日本古来の自然信仰である神道を尊重し、仏教から切り離す神仏分離の考えが広まり、修験者たちの熊野三山での活動が規制されたことで熊野詣は衰微し、明治維新を迎えた1868年(慶應4年 / 明治元年)に神道と仏教を明確に分ける神仏分離令が発せられ、1872年(明治5年)の修験宗廃止令によって修験者たちが離散したことにより熊野信仰の衰退が決定づけられ、その結果として熊野三山を参詣する熊野詣は終焉へと追いやられることになりました。
2004年(平成16年)に、文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されたことで、熊野三山と参詣道が再び現代の人々を引き寄せる霊場として蘇ることになります。
「紀伊国や 牟婁の郡におはします 熊野両所は結ぶ速玉」(後白河上皇 編「梁塵秘抄」)
名だたる上皇たちだけでなく、平安時代の歌人である和泉式部や、鎌倉の実権を握った北条政子(1157-1225)といった現代にまで名が残る人々、また名が残らない人々がそれぞれの思いを持ち、心を癒やす蘇りの霊場である熊野に足を運びました。
新宮として開かれ、熊野三山の三社の一つである熊野速玉大社は、約1900年もの長い歴史を経てきています。
境内に入ると、樹齢800年を超える御神木のナギに迎えられ、参道を進んだ先に神門が見え、その先にも艶やかな朱色の社殿が並び、すぐ側の熊野川から流れてくる風が、身と心を洗ってくれているようで、境内を歩いているだけでも清々しく、とても良い気分になってきます。

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「川原よいとこ 三年三月 セノヨイヤサノセ 出水さへ無けりや倉が立つ エツサ/\ヤレコノサヒーヤーリハ/\セー」(新宮節)
熊野川は参詣道としてだけでなく、生活物資や資材などを運ぶ川としても活用されてきました。
江戸時代には、熊野川流域で切り出された木材は筏(いかだ)に組まれて熊野川に流され、山で焼いた木炭や薪などは船底が平らな団平船(だんべいせん)である三反帆(さんだんぼ)と呼ばれる川舟に積まれ、下流域の河口にある新宮まで運ばれました。
新宮に集められた木材などの多くは、廻船(かいせん, 江戸と大坂などの上方を結ぶ大型貨物船)に積まれて主に江戸に送られていきました。
「島隠り あが漕ぎ来れば ともしかも 大和へ上る ま熊野の船」(山部赤人)
筏流しや三反帆によって運ばれた生活物資や資材の集積地となった熊野川河口域の権現川原には、川原家(かわらや)と呼ばれる家が立ち並ぶ集落が形成され、各地から来た熊野詣の参拝者が訪れたこともあり大いに賑わい、最も栄えた明治時代末期から大正時代初期には三〇〇軒ほど、大正時代中期から昭和の初期には百数十軒ほど立ち並び、宿屋や鍛冶屋、飯屋や散髪屋などさまざまな商店が軒を連ねていたと言います。
川原家とは、釘を一切使わずに組み立てと解体が簡単にできる家のことです。
熊野川の出水(洪水)が年に数回発生することから、権現川原に立ち並んだ家が水没する前に、それぞれの家主自身が短時間で解体して陸の避難所に運び、水が引いたら元の場所に戻して組み立てていました。
1935年(昭和10年)に熊野川に架かる熊野大橋が開通し、次第に道路網が整備されてバスの運行が始まったことで、戦後の1950年(昭和25年)までには権現川原に立つ川原家はなくなりました。
また、筏流しや三反帆も1959年(昭和34年)になると熊野川に沿って国道168号が開通し、効率の良い陸送への転換が図られたことで、1964年(昭和39年)には見られなくなりました。
2007年(平成19年)に、川原家の集落を模した土産物屋などの商店が並ぶ「川原家横丁」が熊野速玉大社の近くに開業したことで、約300年続いていた権現川原に立ち並んでいた川原家の存在を知り、その歴史の一端を感じることができます。
2005年(平成17年)には熊野川の川下りが復活し、再び小舟を使った参詣ができるようになったことによって、熊野御幸が行われていた当時の皇族や貴族が川面で受けていた風を実際に感じられるようになりました。
また、2004年(平成16年)の世界遺産の登録を機に三反帆が復元されたことで、古い写真でのみ知る姿が実際に川面を走る姿として見られるようになりました。
2015年(平成27年)に、熊野速玉大神と新宮城跡の間にあって熊野川に面した地から港湾関係の遺跡である「新宮下本町遺跡」が発見されました。
新宮下本町遺跡には、地下式倉庫群や鍛冶遺構、熊野川へ続く石段や石垣などの港湾に関連する遺構と、瀬戸焼や備前焼などの遺物が多く発見されており、熊野三山が隆盛の頃の平安時代末期から室町時代にかけて港湾を介した活発な経済的交流が行われ、太平洋航路上における重要な拠点だったと考えられています。
これらのことから、太平洋に注がれる熊野川の存在は、これまでの新宮の経済的な発展や歴史を語る上でも欠かすことができない存在であったことが分かります。

「余は茲に於て敢て曰ふ、文明の強売は断じて不正である、不義である。」(大石誠之助「文明の強売」)
1911年(明治44年)、新宮出身の大石誠之助(1867-1911)に死刑判決が下り、その6日後に死刑が執行されました。
1867年(慶応3年)に新宮のクリスチャンの家庭に生まれた大石誠之助は、1890年(明治23年)にアメリカに渡って医学を学び、1896年(明治29年)に帰国すると、新宮で「ドクトル大石」と表札を掲げて医院を開業し、患者に優しく、貧しい者からは払えるようになるまで診療費を取らなかったこともあり、周囲からはドクトル(毒取る)さんや髭(ひげ)のドクトルなどと呼ばれて慕われていました。
1899年(明治32年)に伝染病や脚気などの研究で向かった先のインドで、イギリスの圧制下で貧困に苦しむインドの民衆の実態や医療の格差を目の当たりにしたことで社会の不平等さを知り、大石誠之助は貧富の差や階級対立など資本主義が陥ってしまった社会の構造自体を変革しようとする社会主義思想に関心を持つようになっていったと言います。
「私事先月の初から急に思ひ立ち、当地に太平洋食堂と云ふ一つのレストラントを設けんとて、俄かに家屋を新築、器具装飾の買入等非常にいそがしく、目下夜を日についで働いて居ります。」(大石誠之助「太平洋食堂」)
日露戦争が始まる前年の1903年(明治36年)に、非戦論を掲げる堺利彦(1870-1933)と幸徳秋水(1871-1911)が結成した平民社から社会主義系の週刊新聞である「平民新聞」を創刊し、反戦思想と社会主義思想の普及に努めました。
堺利彦は平民新聞とは別に、1904年(明治37年)に家庭の中から社会主義思想を普及させることを目的とした「家庭雑誌」を創刊しました。
大石誠之助は平民新聞などの社会主義系の機関紙への寄稿だけでなく、家庭雑誌に和洋折衷料理として「カレーと味噌汁」などの西洋料理に関する記事を寄稿していたことで、堺利彦を通してより社会主義思想に共鳴していくこととなりました。
大石誠之助は、日露戦争が始まる1904年(明治37年)に、太平洋(pacific)に面した新宮と、戦争に反対する平和主義者(pacifist)の意を込めた「太平洋食堂 – THE PACIFIC REFRESHMENT ROOM -」という名の洋食屋を自宅の前に開業し、町の人々に渡米中に覚えた西洋料理を自ら教える講習会を開いたり、室内遊具を置いて娯楽と飲食ができるようにし、社会主義的なものだけでなく他では見かけない新聞や雑誌、小説などを町民が自由に閲覧できる新聞雑誌縦覧所も開設しました。
幸徳秋水や他の社会主義思想を持つ人物たちとの交流が始まったことで、大石誠之助は積極的に社会主義運動に参加するようになり、太平洋食堂は議論の場としても使われ、また太平洋食堂を通して資金援助をするようになっていったと言います。
「一個の怪物がヨーロッパを徘徊してゐる。すなはち共産主義の怪物である。」「萬國のプロレタリヤ團結せよ!」(堺利彦・幸徳秋水 英訳文重訳「共産黨宣言」)
1904年(明治37年)、創刊一周年記念号の平民新聞第53号に「共産党宣言」が掲載されると、即時に販売禁止となりました。
共産党宣言は、カール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)が1848年に発表した文書で、労働者階級(プロレタリアート)が団結し、資本家階級(ブルジョワジー)の支配を転覆し、労働者階級による政治権力の獲得を目的としました。
1905年(明治38年)に幸徳秋水は、政府批判の言論を取り締まる新聞紙条例に違反したことで禁錮5カ月の刑を受け投獄されますが、獄中で無政府共産主義(アナルコ・コミュニズム)を主張するピョートル・クロポトキン(Pjotr Kropotkin, 1842-1921)の思想に傾倒するようになりました。
無政府共産主義は、国家の権威や権利を否定して自由意志とその合意による社会を目指す無政府主義(アナーキズム)に加えて、生産手段や財産が共有されることで階級と貧富の差がない社会を目指す思想です。
政府は、このような国家や政府の存在を否定する無政府主義思想が、社会主義思想を持った人物たちに流入することによって過激化していくことを危険視するようになりました。
1908年(明治41年)には、東京の錦輝館で集まっていた幸徳秋水を支持する社会主義者の一派が、無政府共産や無政府と掲げた赤旗を翻して革命歌を歌い、無政府主義万歳と叫んで場外に出たことで制止を図った警官隊と衝突した赤旗事件が起きました。
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」(明治四十年 刑法 第二編 罪 第一章 皇室ニ對スル罪 第七十三條)
1910年(明治43年)、明治天皇(1852-1912)の暗殺を企てたとする罪で幸徳秋水は逮捕されました。
これは、無政府共産に深く傾倒し天皇制を否定する考えを持っていた宮下太吉(1875-1911)が明治天皇の暗殺を企てて爆弾を製造していたことが、長野県の河原で行った爆破実験の爆音がきっかけで発覚し、宮下太吉とともに暗殺計画に関与していた管野スガ(1881-1911)と他2名が逮捕されたことが要因となりました。
赤旗事件以降に幸徳秋水が管野スガの夫となっていたこともあり、暗殺計画には関与していないにも関わらず、幸徳秋水は天皇暗殺の企ての首謀者と見なされました。
また、社会主義者たちの一掃を図りたい政府は天皇暗殺計画を名目にして数百人もの無政府主義者を含む社会主義者を逮捕または検挙しました。
そのうちの26名が刑法第73条にあたる大逆罪として起訴され、1911年(明治44年)に証人申請をすべて却下する非公開での審理を経て全員が有罪となり24名が死刑、2名が有期懲役の判決が下されますが、翌日に死刑判決が下されたうちの12名が恩赦によって減刑されて無期懲役となりました。
判決の一週間後には12名の死刑が執行される一連の事件は大逆事件と呼ばれ、死刑が執行されたうちの一名が共同謀議の罪で逮捕されていた大石誠之助でした。
直接関与していた宮下太吉と管野スガ、他2名の計4名以外の幸徳秋水や大石誠之助などの8名は、証拠不十分でありながら死刑判決が下ったのは、政府の捏造による冤罪(えんざい, 無実の罪)だったと現在は考えられています。
赤旗事件で重禁固刑2年の有罪となって獄中にいた堺利彦は、この難を逃れていました。
1911年(明治44年)には、大逆事件を機に政治・思想・言論の取り締まりを任務とする特別高等警察が設置されることになり、敗戦後の1945年(昭和20年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって廃止されるまで、社会主義運動などを徹底的に取り締まりました。
大逆事件で適用された刑法第73条は、大日本帝国憲法から現行の日本国憲法へ変わることに伴って、1947年(昭和22年)の刑法改正時に削除されました。
「千九百十一年一月二十三日 大石誠之助は殺されたり。げに厳粛なる多数者の規約を 裏切る者は殺さるべきかな。死を賭して遊戯を思ひ、民族の歴史を知らず、日本人ならざる者 愚なる者は殺されたり。『偽より出でし真実なり』と絞首台上の一語その愚を極む。」(佐藤春夫「愚者の死」)
大逆罪の容疑となった26名のうち、大石誠之助を含め6名が熊野地方の出身者であり、2名が死刑に、4名が無期刑となりました。
天皇の暗殺を目論んだ逆徒の関係者となった遺族らは迫害を受けて苦しむことになり、特に大石誠之助はその中でも中心的人物だったこともあり、出身地の新宮の町に暗い影を落とし、事件のことを話題にすることは長らく禁忌とされていたと言います。
大逆事件の真相が解明されていくと、新宮市では1960年(昭和35年)に「大逆事件50周年紀南関係者追悼記念行事委員会」による慰霊祭が行われ、冤罪事件だったとして6名の名誉を回復しようとする動きが広がり、2001年(平成13年)には6名に対して名誉回復宣言が採択され、2018年(平成30年)には明らかに冤罪だとしても有罪判決が未だ覆っていないなどの賛否さまざまな議論を経ながらも賛成多数で可決され、大石誠之助は人権思想や平和思想の基礎を築いた人物として新宮市の名誉市民となりました。

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「藺澤浮島ハ新宮駅ノ附近ニアリ、元此地方一帶ニ存在セル池沼中ノ泥炭地ノ僅ニ遺存セルモノナリ、浮島ノ内部ハみづこけやまどりぜんまい等ノ外ニ暖地ノ種類ヲモ交フ、後者中ニハてんだいうやくアリ、是レ蓋シ附近ノ土地ヨリ侵入セルモノニカノル」(新宮藺澤浮島植物群落「天然紀念物調査報告〔植物之部〕第七輯」)
新宮市の市街地中心部には、木々が茂る四角形の森があり、実際には沼地に浮かんでいる島なので「浮島の森」、以前にあった地名から「藺澤(藺沢, いのそ)の浮島」または「藺の澤(いのど)の森」と呼ばれています。
東西約96m・南北約55mの浮島の森には、低地の沼沢に形成されたスギ(杉)を優占種として広葉樹など高さ15mを超える樹木があり、暖地性のテツホシダ(鉄穂羊歯)や寒地性のヤマドリゼンマイ(山鳥銭巻)が混生して繁殖し、高層湿原に多いオオミズゴケ(大水苔)の群落が発達し、また根も葉も持たない最も原始的なシダ植物であるマツバラン(松葉蘭)が見られるなど、多種多様な植物が生育しています。
このような浮島の森の他に類を見ない生態系を長く保存し保護するために、1924年(大正13年)に植物学者の牧野富太郎(1862-1957)らが、1926年(昭和元年)には植物学者の三好學(1862-1939)らが調査に訪れ、1927年(昭和2年)に「新宮藺沢(いのそ)浮島植物群落」として国の天然記念物に指定されました。
藺は湿地に生えるイグサ科の多年草のことで、藺の生える澤から藺澤(いのそ)と呼ばれ、藺の澤(いのど)とも呼ばれるのは、この地方ではザ行とダ行を混同して発音することが多いことから、「イノソ」から「イノゾ」、そして「イノド」と転訛したことによると考えられています。
「浮島は當時洪水の際附近明神山の南角が缺壞して浮動し、遂に今日のやうになつたものであらうといはれてゐる。」(鉄道省 編「紀州」)
浮島の森は沼に浮いている島であり、強い風が吹くと島全体が動いたと言われています。
その正体は、沼沢に植物遺体などが地下からの湧き水によって分解されずに堆積してできた、水より比重の軽い泥炭の一部から形成される「泥炭浮遊体」です。
泥炭の層は、厚さ30〜60cmの植物が根を張る上位の泥炭層と300cm以上の粘土層を挟在する下位の泥炭層から成っており、上位の泥炭層と下位の泥炭層の間には5〜30cmの水の層があるため、上位の泥炭層が持つ浮力と内部に発生するメタンや二酸化炭素などによる浮力によって、上位の泥炭層が浮遊している状態だと言います。
浮島の森の成り立ちは、約五千年前の縄文海退と呼ぶ海面の低下によって、それまで海だった場所が沼沢や湿地帯となり、沼沢の中で植物遺体が地下水によって分解されずに長い年月をかけて堆積し、やがて浮遊した泥炭層となった島が現れ、1700年代の前半に現在のような森が形成されたと考えられています。
また、昔は熊野川の川跡だった頃に、島の北西にある明神山の南側が川の洪水で崩壊し、その一部が流れ着いて現在に至ったとも考えられていました。

「水田中二孤島狀ヲナシ島中二大約百年前後ノ樹齢ヲ有スル赤松、杉ヲ主ナルモノトシテやまもゝ、やまとうるし、うめもどき、みつばつゝじヲ混淆セル森林アリ。島ハ水面二浮動ス。島内二井戸狀ノ個所アリテ俚俗『蛇ノ釜』ト稱ス。一種ノ迷信ノタメ古來水深ノ調査ヲ試ミシ者ナク唯底無シトノミ言ヒ傳ヘ居タリ。近年町ノ發立と共二島ノ附近ヲ埋立テ道路ヲ通シ或ハ家屋ヲ建設シ沼澤ヘハうらじろ、こしだノ如キ植物ヲ投ジテ水田ヲ作リシタメ水深頓二滅ゼシ観アルモ尚『十メートル』内外ノ箇所アリ。」(高橋勉「藺澤浮島〔浮島とその植物〕」)
現在の浮島の森は、三方を住宅に、一方を水面に面していますが、1918年(大正7年)頃までは舟を使って島へ渡るほどの豊かな水を周囲に張り巡らせた沼沢だったと伝えられています。
1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震(南海道地震)の際に島は東の方へ寄り、やがて西の方へと移動したと言います。
1954年(昭和29年)以降の日本の高度経済成長に伴って、隣接する住宅地や開発地からの生活雑排水や下水、土砂などが流れ込んだことで、次第に島は堆積物によって半ば固定され、汚水の流入と開発による地下水の低下によって水質が悪化したため、浮島の森に自生する植物が死滅するなどの悪影響が出始めました。
そのため、瀕死となりつつあった浮島の森の保全のために水底の堆積物をさらう浚渫(しゅんせつ)や埋め立て工事が繰り返された結果、北・東・南側は民家が間近まで接近することとなり、浮島の森は町中において鬱蒼とした森の様相となってしまい、もはや島であると一見しただけで認識することが困難になってしまいました。
当時から浮島の森を観光資源として島を捉える人はいたものの、人々の関心は薄く、自然の成り行きのままに放置されたことで島の周囲は崩れ、水質が悪化したことで悪臭を漂わせ、樹木は枯滅したり倒れたままとなり、国指定の天然記念物にもかかわらず、浮島の森はもはや民家の庭園と化したかのような眺めだと称されていました。
1987年(昭和62年)度に文化庁が保存の方針を決めたことで、専門家らが調査団を編成し、1989年(平成元年)から天然記念物に指定された当時への原状回復を目指す植物群落保存調査が始まりました。
1992年(平成4年)に、生活雑排水や下水などが流れ込み川底にヘドロが堆積するほど汚染されていた新宮市の市街地を流れる市田川に熊野川の水を引き入れて浄化することで、その支川である浮島川も浄化し、浮島川の浄化された水を揚水ポンプで浮島の森へ導水することで水質を改善する「市田川浄化事業」と「浮島川河川環境整備事業」が開始され、2000年(平成12年)に設備が完成し運用されたことで、導水前に比べて浮島の森の水質は改善されていきました。
「ほんに浮島浮いてはいても 根なし島とは言わしゃせぬ」(野口雨情)
2007年(平成19年)に、2005年(平成17年)から始まった浮島の森の東側の隣接地だった駐車場を取り壊して、約2mの深さまで掘り下げ、水面を約800m²拡張する水面拡張工事が完了したことによって、以前の姿を一部取り戻し、水面に全体が映るようになった浮島の森は、本当に水に浮かんでいる島なのだと改めて感じられるようになりました。
水面拡張工事にかかった総事業費は、土地取得費の5,500万円を含む約1億2,000万円(土地8割、工事5割が国の補助)でした。
2010年(平成22年)に行われた調査では、小さいスギがあちこちで育つようになり、自生していたオオミズゴケが生育面積を広げていることなど、浮島の森が着実に再生していることが分かりました。
しかしながら、一度壊れてしまった自然は完全に元の姿に戻ることは少なく、浮島の森は周囲の埋め立てなどによって陸(下位の泥炭層)に乗り上げて座礁している状況となっており、現在でも西側で水位の変化があった際にわずかながら上昇・下降する程度であって、必ずしも浮遊しているとは言いがたい状態なので、いつの日にか、風によって揺れ動くかつての浮島の森が見られるようになることを望んでしまいます。
「當浮島は沼澤性の一地域にして面積約五段步略々方形をなし地域内の土壤は多く水を含みて固定せず踏めば震動す。試に竿を地中に挿入すれば深さ三十尺に至るも尙ほ地盤に達せず。」(神武天皇聖蹟と史蹟名勝天然記念物)
浮島の森は、神倉聖(かんのくらひじり, 修験者)の修行場だったことから霊場として島を侵す者はこれまでにおらず、今日までの紆余曲折がありながらも64科125種(2000年時点)の植物が息づいています。
浮島の森の中では、見上げると空を覆うように生い茂る樹木と地表から生える植物群を分け入るように遊歩道が伸びています。
島の地表で飛び跳ねると島が揺れるらしく、昭和の初期には地表を強く足踏みするだけで島が上下に揺れ動き、高さ10mはあるスギの梢が揺れたと伝えられていますが、もし飛び跳ねた場所が10mの竿でも地盤に届かない底なし沼だった場合には足が埋もれ、次第に全身が地中へと沈んでいってしまうそうです。
残念ながら遊歩道から島の地表に立ち入ることは禁止されているので試みることができませんが、2000年(平成12年)以降に許可を得て地表に降り立った研究者が試みたところ、水面に波が立ったと言います。
「翁さればこそ、此邪神は年經たる虵なり。かれが性は婬なる物にて、牛と孳みては麟を生み、馬とあひては龍馬を生といへり。此魅はせつるも、はたそこの秀麗に姧たると見えたり。かくまで執ねきをよく愼み玉はずば。おそらくは命を失ひ玉ふべしといふに、人々いよゝ恐れ惑ひつゝ、翁を崇まへて遠津神にこそと拜みあへり。」(上田秋成「雨月物語〔蛇性の婬〕」)
暖地と寒地性の植物が混交するなど珍しい植生を持つ密林内を興味深くきょろきょろしながら遊歩道に沿って歩いていくと、やがて「蛇の穴(じゃのがま)」の説明書きに出くわします。
ある日のこと、薪を取る父に連れられ島に入った娘の「おいの」が昼食時に箸を忘れたことに気づき、箸になる枝を求めて島の奥深くに入っていったところ、この穴に住み着いていた大蛇においのは呑み込まれてしまったと伝えられています。
「おいの見たけりゃ藺の澤へ御座れ おいの藺の澤の蛇のがまへ」という俗謡を背景にした小説が江戸時代に書かれたと言います。
おいのを呑み込んだ大蛇が住む穴が、この蛇の穴と呼ばれる底なし沼のことです。
落ち葉で穴を実際に見ることはできませんが、落ち葉が積もる前には本当に穴が空いており、国指定の天然記念物になっていることから、落ち葉を取り除くなど現状変更を伴う場合には許可が必要なため、自然の成り行きで、成り行くままとなっています。
今では落ち葉によって穴に蓋がしてあることで大蛇が出てこられず、おいのに続くさらなる犠牲者を生まずにいるとも言います。
浮島の森に訪れた文芸評論家の野田宇太郎(1909-1984)は、一歩森に踏み込むと樹木が嘘のように揺れ、奥に進むと蛇の釜という井戸があり、そばに長い竹竿が置いてあったので突き刺してみたらどこまで刺しても手応えはなく、ただメタンガスの臭いがぷんと鼻をついて悪夢だったと述べ、悪夢のような薄暗い森には蛇の妖しに通ずる一種の妖気があたりに立ちこめているのを感じたと伝えています。

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「高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」(与謝野寛)
熊野川の河口付近の右岸にある標高約60mの丹鶴山(たんかくやま)の山上には、太平洋を一望できる「新宮城跡」があります。
平山城である新宮城は、源為義(1096-1156)の娘である丹鶴姫が創建した丹鶴山東仙寺があったことから別名は丹鶴城とも呼ばれ、1618年(元和4年)に浅野忠吉(1546-1621)によって築かれましたが、完成前の1619年(元和5年)に浅野忠吉が備後国に移封されたことで、紀州藩附家老の水野重央(1570-1621)が代わりに入城してからは水野氏の居城となり、第10代城主の水野忠幹(1839-1902)をもって明治維新を迎えました。
1873年(明治6年)の廃城令を経て、土地は民間に払い下げられ、建造物のすべてが1875年(明治8年)に取り払われましたが、1980年(昭和55年)に一部を除いて新宮市が用地を買収したことで丹鶴城公園として整備されました。
新宮城跡(丹鶴城公園)には、当時の天守などの建造物は一切残っておらず、二ノ丸跡は保育園になっていますが、道路に面した石垣では表面が加工された切石で算木積(さんぎづみ)された美しい隅部を見ることができ、本丸跡で反りのある武者返しの石垣、鐘ノ丸跡では1954年(昭和29年)に開業した旅館が1980年(昭和55年)の廃業まで運営していた城跡の下から伸びる距離72mのケーブルカー「たんちょう」の軌道跡など、城を形作っていた石垣がきれいに残っているだけでなく、多くの歴史の痕跡も新宮城跡に残されています。
なによりも他では見られない特徴が、新宮城跡の下を紀勢本線の鉄道トンネルが貫いていることです。
切込み接ぎ布積みの石垣が残る松ノ丸跡から炭納屋跡と想定される水ノ手曲輪へ向かう下り道の途中で、山上にある出丸跡の石垣、そして眼下に見下ろすと熊野川とそこに架かる鉄道橋である熊野川橋梁を視界に捉える美景を見つけることができました。
ここで腰を落として、昼食のおにぎりを食べつつ、列車が熊野川に架かる鉄道橋を渡って新宮城跡の下に消えてゆく姿を見てみようかとしばらく待ってみるのも、のんびりとした心地よいひと時になり得そうです。

「亶洲在海中 長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家」(陳寿「三國志 呉」)
中国最初の統一王朝、秦の第31代目の王である始皇帝(前259-前210)の命を受けた方士(神仙の術を身につけた者)の徐福(前278?-前208?)は不老不死の仙薬を求めて東の方へ船を進め、黒潮の流れに乗り、熊野の地にやってきたと伝えられています。
そして、徐福は熊野の地で自生するテンダイウヤク(天台烏薬)の薬木を見つけたと言います。
テンダイウヤクは、樹高約3mのクスノキ科の常緑低木で、薬用には肥大部分の根を使い、強壮・健胃・鎮痛などの作用があり、抗酸化力が比較的高いことが分かっています。
しかしながら、不老不死の仙薬につながる薬木を見つけたにもかかわらず、徐福は始皇帝のもとへ帰ることはありませんでした。
徐福は、この地の温暖な気候や素晴らしい眺め、地の人々との温かい交流に触れたことで、ここを永住の地と決めて、引き連れてきた総勢3,000人もの童男童女(未婚の男女)や百工(各種の工人)たちとともに、土地を拓き、農耕や漁法、捕鯨や紙すき、医薬などの技術や知識を伝え、その子孫たちは後の熊野の地に繁栄をもたらしていったと言います。
徐福の伝説は、北は青森県から南は鹿児島県まで日本各地にあり、さまざまな伝承が伝わっています。
これは、伝承のある各地のほとんどが修験者が修行する寺院や聖地であることから、熊野を拠点にした修験者が修行を通して徐福の伝説が伝わったのではないかと考えられています。
「背後の山を蓬萊山と稱へ、往古秦徐福此に來りて、不老不死の藥草を採れりといひ傳ふ。」(小野芳彦 編「熊野の栞」)
新宮城跡から少し下流に向かった先には、常緑樹に包まれた標高約50mの蓬莱山、昔は白狐山と呼ばれた椀を伏せたような小山があります。
この小山で、徐福はテンダイウヤクの薬木を見つけたと伝えられています。
蓬莱山の南麓には、孝昭天皇(在位 前475-前393)の時代に創建された阿須賀神社があり、境内には古くから徐福が祀られており、江戸時代の絵図に描かれていた徐福之宮が1985年(昭和60年)に再建されています。
紀州藩主の徳川頼宣(1602-1671)が計画し、その後の新宮城第5代城主の水野忠昭(1700-1749)が1736年(元文元年)に「秦徐福之墓」と刻まれた緑色片岩の墓碑を建てました。
1994年(平成6年)に、徐福の墓碑を中心に中国様式を参考に建築した楼門を設置した徐福公園が開園され、園内には徐福像や天台烏薬の木、不老の池などを見ることができます。
橙色でひときわ鮮やかな楼門には異国情緒がありますが、紀州特産の温州みかんを連想させる色と相まって、違和感を感じることなく周囲の風景に溶け込んでいます。
「秦代東渡日本的徐福故址之発現和考証」(光明日報, 1984.4.18付)
中国において地名標準化を進める一斉調査の中で、1982年に江蘇省の徐阜村が元は徐福村と名乗っていたことが判明しました。
このことによって、さまざまな調査が行われて徐福の出身地だと判明したことにより、これまで存在が懐疑的だった徐福が実在した人物であると決定づけられることになりました。
徐阜村には徐姓の家はないが、これは徐福が不老不死の仙薬の入手に失敗したときに、始皇帝が徐姓の一族に危害を及ぼさないように、別の姓に変えさせたからと伝わっています。
現在では徐阜村は元の徐福村と名を改め、村には徐福像が立ち、1988年に建立された徐福祠には国内外から多くの参拝者が訪れると言います。

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「み熊野の 神倉山の 石たたみ のぼりはてても 猶祈るかな」(西園寺公経)
熊野速玉大社の南約1kmに位置する標高約199mの神倉山の中腹の懸崖には「神倉神社」があります。
1193年(建久4年)に源頼朝(1147-1199)が築造したと伝わる538段の急勾配の鎌倉積の石段を上がり、現れた鳥居の先には黒雲母花崗斑岩を加工した手水鉢(ちょうずばち)を目にします。
この手水鉢は、新宮城第2代城主の水野重良(1596-1668)が、徳川家康(1542-1616)の側室の娘であり先代の水野重央の養女となった姉のシャン姫(しゃむ姫, 1593-1662)の延命と繁栄を願って1631年(寛永8年)に寄進しました。
手水鉢に湛えられた水で口をすすぎ身を清め、先に進むと注連縄(しめなわ)が張られた巨大で奇怪な岩であるゴトビキ岩に出会います。
その巨岩の姿形から熊野地方の方言でヒキガエルを意味するゴトビキと呼ばれ、ゴトビキ岩は神倉神社の御神体です。
熊野信仰の始まりとなる熊野の神々は、初めにこの巨岩に降臨したとされ、後に景行天皇が新たな宮を造営して新宮と称したことから、この地は「元宮」と称されるようになりました。
明治時代以降の神仏分離令や修験宗廃止令などを経て社殿は荒廃し、1870年(明治3年)の台風で拝殿は倒壊しましたが、1918年(大正7年)にゴトビキ岩の下に小祠を建て、1926年以降の昭和に入ってから山麓に大鳥居や社務所など、山上に社殿や鳥居などが再建されたことで、神倉神社は再興されました。
「敏達三甲午 正月二日神倉放光明 敏達四乙未 正月六日夜神倉火祭始」(熊野年代記)
「お燈祭は 男の祭 セノヨイヤサノセ 山は火の滝 下り竜 エツサ/\ヤレコノサヒーヤーリハリ/\セー」(新宮節)
熊野速玉大社の摂社である神倉神社では毎年2月6日夜、千数百人ほどの上がり子(祈願者)が白装束に荒縄を胴に締め、御神火を移した松明をもって、神倉山の山頂から急峻な石段を駆け下りて、一年の家内安全などを祈願する御燈祭りが行われます。

「遂越狭野到熊野神邑且登天磐盾仍引軍漸進海中」(日本書紀)
720年(養老4年)に成立した日本書紀に記された新宮がかつて熊野(くまぬ)の神邑(かみのむら, みわのむら)と呼ばれていた頃、即位前の神武天皇は東征において熊野神邑の天磐盾(あまのいわたて)に登り、それから軍を率いてさらに進んでいったと伝えられています。
神武天皇は、新天地を求めた東征を終え、その翌年の紀元前660年に即位し、日本の初代天皇となりました。
神武天皇が登った熊野神邑の天磐盾とは、神倉神社のゴトビキ岩だと言われています。
ゴトビキ岩を御神体として神倉神社の祭神となっている天照大神(あまてらすおおみかみ)とその子孫である高倉下命(たかくらじのみこと)は、神武天皇の軍が熊野に現れた大熊が発する毒気に晒され弱らされた際に横刀(たち)を神武天皇に献じたことで、神武天皇は覚醒し横刀をもって大熊を退けたと言います。
1956年(昭和31年)にゴトビキ岩の近くの経塚(きょうづか, 土中に経典を埋納した塚)の最下層から、経塚が造営された際に破壊されたと推測される袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)の破片22片が出土していることは、古くから磐座(いわくら, 神が宿る岩石)として祀られていたことを物語っています。
神武天皇が登った天磐盾ことゴトビキ岩からは、太平洋だけでなく新宮の市街地も一望できます。
熊野速玉大社と川原家横丁は熊野川と市街地を隔てる標高約253mの千穂ヶ峯で隠れてしまい見えませんが、太平洋に注がれる熊野川、浮島の森や新宮城跡、蓬莱山や徐福公園、本日これまでに訪れた地がそれぞれ見えており、ここからは新宮のすべてを見通せそうです。
二千数百年前に神武天皇が一望した天磐盾からの眺めは、その二千数百年後の現代でもゴトビキ岩から眺めることができます。

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「とこしえに 君も会えやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を」(衣通郎姫)
新宮市の南東、太平洋に面する三輪崎(みわさき)では古来から捕鯨が盛んでした。
古くから鯨は潮を吹く魚として「いさな(鯨魚, 勇魚)」や「いさ」と呼ばれ、「いさなとり(鯨魚取り)」は海や海辺にかかる枕詞になっていました。
古来からの捕鯨である、死んだもしくは傷ついて漂着した鯨を捕獲する寄鯨、沖に漂流した鯨を引き揚げる流鯨などの消極的な捕鯨に代わって、鯨を発見し弓や槍もしくは縄をつけた銛(もり)で捕獲しようとする突取法などの積極的な捕鯨が始まるようになり、1677年(延宝5年)に網を張って追い込み銛で捕獲する綱取法が開発されたことで、捕鯨がより盛んになっていきました。
熊野水軍の名で馳せた紀州地方における太地(現在の太地町)と古座(現在の串本町)に連なる捕鯨の拠点の一つである三輪崎では、三輪崎組または御組と呼ばれる捕鯨集団(鯨方・鯨組)が決まった網代場(鯨漁場)で、主にセミクジラ(背美鯨)やマッコウクジラ(真甲鯨)などの六鯨(6種類の鯨)を捕獲していました。
捕鯨の最盛期には、日本全体での鯨の捕獲数は年間800頭にも及んだと推測されており、1868年以降の明治時代に入ると、これまでの乱獲を要因としているが日本近海に進出してきた西洋の帆船式捕鯨法もあって、三輪崎を含めた日本の捕鯨業は衰退に向かっていったと言います。
「鯨とる くま野の船の 八十つゞき 花も紅葉も 浦にこそあれ」(加納諸平)
現在でも残る山見台跡からは、太平洋の海域の一つである熊野灘を望め、黒潮に乗って北上する鯨の発見や捕鯨の指示が行われていました。
三輪崎の八幡神社で奉納される鯨を捕る様子を踊りに仕立てた鯨踊り(捕鯨踊り)は1740年代に京都の公家に鯨の肉を献上したことにより始まったとされ、鯨漁の最盛期には大漁を祝っていましたが、明治時代後期に途絶え、その後の1924年(大正14年)に八幡神社の例大祭で復活したことから、毎年9月に漁業の安全と大漁を祈願して披露されることになりました。
「三輪の崎 荒磯も見えず 波立ちぬ いづくゆ行かむ 避き道はなしに」
三輪崎の南東約300mの沖の海上に「孔島(くしま, 久嶋)」、その北の陸地に近い海上には「鈴島(すずしま)」があります。
鈴島は岩石から成る島で、奇岩が突出し、寄せる海波が白雪を散じ、岩石の上の古松は海風でうなる名勝として知られ、孔島は鈴島より大きい島で、広い磯と芝生があることから潮干狩りを兼ねた行楽で島に渡る人が多く、天然の特産物であり新宮市の花になっているハマユウ(浜木綿)が群落自生していましたが、今ではわずかとなっており、夏になるとハマユウは白い花を咲かせ、絶滅危惧種に指定されている渡り鳥のウチヤマセンニュウ(内山仙入)が繁殖のために姿を現すと言います。
また、孔島にある厳島神社では、三輪崎の捕鯨集団ゆかりの法華塔や石灯籠などの石造物が残っています。
現在では三輪崎から鈴島、鈴島から孔島はそれぞれ防波堤で繋がっており、鈴島と孔島へは歩いて渡ることができます。
三輪崎は古くから漁業を営む者が多かったことから、1843年(天保14年)に孔島と鈴島の間を埋め立てようと目論み失敗しましたが、1931年(昭和6年)になると孔島と鈴島の間に防波堤が完成し、1956年(昭和31年)には三輪崎と鈴島が陸続きとなったことで、三方が囲まれた三輪崎漁港が完成し、荒天の時でも安心して漁船が港内に係留することができるようになりました。

「み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも」(柿本人麻呂)
三輪崎漁港から海の方へと防波堤に沿って歩いて行くと、停泊しているいくつかの漁船の奥に見えている奇怪な岩石群が鈴島で、今では防波堤の一部を成した箱庭の様であり、その中央部には海神を祀る蛭子神社の朱塗りの鳥居がちらりと見えます。
鈴島から孔島へと続く道の途中で、犬を連れて散歩する人にすれ違いましたが、この道は防波堤越しに広がる太平洋、振り返って陸側を見れば三輪崎の町並み、その奥には熊野の山々が望める、とても気持ちの良い散歩道にもなっているようです。
道の終点である孔島へ降り立つと、鈴島とは違って低木の木々が茂る小さな森と、磯に立つ朱塗りの鳥居に目が行きます。
ハマユウが咲く時期であれば、夕方に白く細長い花弁を見ることができ、他にもハマゴウ(浜栲)や本州では珍しいノアサガオ(野朝顔)などの暖地性海浜植物の宝庫で、120種余りの植物が孔島には生育していると言います。
孔島の外周をぐるっと歩いてみることで、太平洋からの波の音と合わせて聞こえる葉擦れ、澄んだ空を漂う浮雲、熊野の山々に少しずつ近づく太陽、島の一回りで気づく、今日という時の移ろいを堪能することができたようです。
「熊野ノ新宮ノ領ニ小島アリ孔島ト云此島中ノ石孔アリ故ニ孔島ト云余再三此ニ渡リ見ルニ甚タ虚説ニ近シ」(滕成裕「怪石志」)
「苦しくも 降り来る雨か 神之崎 狭野の渡りに 家もあらなくに」(長忌寸意吉麻呂)
孔島の名の由来は、島に孔(穴)のある怪石があったことだと伝わっており、江戸時代には見つらなかったことから根拠のない噂だったとされています。
その謎の怪石を島内で発見することができたのなら、孔島の秘められた謎を解き明かせるだけでなく、歴史的な貴重な遺物として今から二千数百年前に神武天皇が熊野神邑に至った際に、長い松原が続き鈴島と孔島を見晴らせる海青く砂白い、萬葉集では神之埼(みわのさき, 三輪崎)と詠われた地を通った事実を、もしかしたら裏付けられるのかもしれません。
「塵まみれなる街路樹に 哀れなる五月來にけり 石だたみ都大路を歩みつつ 戀ひしきや何ぞわが古里」(佐藤春夫「望郷五月歌」)
ふと気づくと夕凪の頃なのだろうか、海辺の空に浮かぶ雲はそのまま動くことなく、あたりは防波堤に寄せる波の音だけが微かに聞こえる、安穏な時が訪れています。
日本神話で語られる時代、それ以前からも、熊野の山々は連なり、太平洋はどこまでも広がり、熊野川の青く澄んだ流れ、それらの風光明媚な姿は今の時代にもしっかりと引き継がれています。
そして、神秘的な巨岩や浮遊する島、信仰の社や小山、伝説や逸話、また人間の長い営みから生まれた光と影によっても形作られたであろう新宮の地は、知れば知るほど心を揺り動かされる深い魅力を感じます。
かの国から不老不死の霊薬を求めて訪れた賢人が、人々との心温まる交流や自然景観に魅せられたため、故郷に帰ることなくこの地で末永く暮らしていくことを決めました。
それから幾世を経て、新宮を取り巻く環境がどれほど様変わりしていったとしても、古代から継がれる不変の情趣は、なぜ賢人がこの地に留まったのかを教えてくれます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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