
「きえはつる 時しなけれは こしちなる 白山の名は 雪にそありける」(凡河内躬恒)
福井県北東部、夏でも雪が残るという白山の南西に位置し、九頭竜川の流れに沿った河岸段丘に市街地が形成された『勝山市(かつやまし)』。
勝山市から望める、三県にまたがって山々が連なる白山(はくさん)は、標高2702mの御前峰を最高峰に、大汝峰と別山を合わせた三峰の総称で、古くは越白嶺(こしのしらね)とも呼ばれていました。
霊峰として崇敬される白山は、奈良時代の717年(養老元年)に越前国で生まれ越大徳(こしのだいとこ)と称された僧の泰澄(たいちょう, 682-767)によって開山されました。
「靈龜二年…爰酬祈念 先夢中貴女以天衣瓔珞餝身 色相莊嚴 巍々從紫雲中透出告曰 我靈感時至矣」(泰澄大師傳記)
「養老元年…四月一日 和尚生年卅六歳也…汝我欲拜本地眞身志妙也 我本地在天嶺禪頂 趁流尋源往而可拜 速隱畢 同年六月十八日蒙貴女語 攀登白山禪頂…向緑池祈念加持 一心不乱…尓時從池中示九頭龍王形 和尚振首責曰 此是方便 示現 非本地眞身 乃又十一面觀自在尊慈悲玉躰忽現矣 妙相遮眼 光明耀身 爰和尚悲喜滿胸 感涙洗面」(泰澄大師傳記)
白山への越前側の登拝口、そして山の神への敬意と恵みに感謝する白山信仰の拠点として「平泉寺(へいせんじ)」は、泰澄によって717年(養老元年)に創建されますが、現在では「平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)」と呼びます。
716年(霊亀2年)のこと、山中で厳しい修行を行っていた35歳の泰澄は、紫雲から現れた天衣をまとい瓔珞(ようらく, 装身具)で身を飾った白山神(白山妙理権現)の化身の貴女から、早く白山へ来るようにと告げられました。
717年(養老元年)4月1日、泰澄が白山の麓に来宿ると、貴女から我が本地真身(真の姿)を拝みたいと欲するならば、白山の山頂まで訪ねよと告げられました。
泰澄が6月18日に白山(御前峰)登頂を果たし、一心不乱に加持祈念をすると緑碧池(翠ヶ池)から九頭竜王が現れますが、真の姿ではないことを見抜いてさらに祈ったところ、白山神の本地真身である十一面観音が突如現れると、泰澄は感極まり涙で顔を濡らしました。
右峰の別山では聖観音が化身した弓矢を持った宰官の姿をした神の小白山別山大行事と出会い、左峰の大汝峰では阿弥陀如来が化身した老翁の姿をした神の大己貴と出会ったことで、白山三峰のそれぞれの山頂で神の真の姿を悟った泰澄は、白山に居して千日間にも及ぶ厳しい修行を積んだと言います。
古来より日本に浸透していた神道は、森羅万象に八百万の神が宿ると考えられていました。
奈良時代以降に仏教が広がると、仏と日本古来の神々とが融合し一体系化する思想が生まれます。
それに伴って、仏や菩薩が衆生を救うために、本来の姿(本地)を日本の神となった仮の姿で現れる(垂迹)とする本地垂迹(ほんじすいじゃく)の考えが平安時代にかけて発展していました。
泰澄が修行を終えて下山し、白山神の化身である貴女が現れた池の近くに庵を構え、後に修行者のための宿坊や拝殿が建ち並び、いつしかそこは池の名前から平清水(ひらしみず)または平泉(ひらいずみ)と呼ばれるようになります。
泰澄が登ったとされる白山の禅頂(山頂)への道は、禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれる修行のための道として開かれました。
「結跏趺坐 結大日定印安然入定 遷化春秋八十六也 頭放神光 山谷悉金地 空雨蓮花 靈瑞甚多矣」(泰澄大師傳記)
737年(天平9年)に疫病が全国で大流行した際には、聖武天皇(在位 724-749)の勅命により56歳の泰澄は会得した十一面法を用いて疫病の収束に尽力したことで、聖武天皇から大和尚位を授かり「泰證」の号を与えられますが、亡き父を慕い泰‘證’から泰‘澄’に許しを得て一字を変え、以後は泰澄と名乗っていきます。
泰澄以前の名は、幼名も含めてわかっておらず、父の名は三神安角、母は白山の麓の伊野氏の女性だと言われています。
758年(天平宝字2年)、77歳の泰澄は白山を下り、若い頃に修行に励んだ越知山(おちさん)の麓に戻ります。
767年(神護景雲元年)、86歳の泰澄は座禅を組み大日如来の定印を結び安らかに入滅したと伝わっています。
「惣而本地禪頂慈悲喜捨誓願无怠 何况垂迹靈塲邪正拔濟方便日新 後々將來弥以其靈貺叵思議焉」(泰澄大師傳記)
1084年(応徳元年)に天台宗の総本山である比叡山延暦寺の庇護下に入り、1172年(承安2年)に大講堂が建立されて落慶法要が営まれたことを機に平泉寺(ひらいずみでら)と称することになりますが、やがて音読みで平泉寺(へいせんじ)と呼ぶようになります。
比叡山延暦寺の末寺となった平泉寺は、戦国時代に最盛期を迎え、幅が四十六間(約83m)の拝殿、四十八社・三十六堂、六千の坊院が建ち並び、寺領は九万石、僧兵は八千人を数える巨大な宗教都市となったと言います。

「去程ニ木曽義仲ハ自ラハ信濃ニ有ナカラ越前国火燵カ城タリ備ヘケル彼城郭ニ襲ル勢平泉寺長吏齊明威儀師…六千餘騎コソ籠リケレ」(平家物語【火燵合戰】)
1180年(治承4年)に以仁王(もちひとおう, 1151-1180)が、平清盛(1118-1181)の一族である平家を打倒するため諸国に挙兵を呼びかけましたが、早期に企てが発覚し失敗しました。
しかしながら、この以仁王の呼びかけをきっかけに、平家と源頼朝(1147-1199)を中心とした坂東武者の間で覇権を巡る争いが始まることになりました。
比叡山延暦寺は1177年(治承元年)の鹿ヶ谷事件から平家と対立していたため、末寺の平泉寺は源氏方に付き、1183年(寿永2年)に木曽義仲(源義仲, 1154-1184)が越前国で日野川をせき止めて造った人工の湖に囲まれる燧ケ城(火打城)を築いた際には、平泉寺の長吏(事務を統括する僧)である斎明(?-1183)は多くの僧兵を引き連れて燧ケ城に駆けつけていました。
ところが斎明は平家方と通じており、燧ケ城を囲む湖の破壊方法を教えたことによって燧ケ城は落城しました。
「四-五百頭ノ牛ノ角ニ松明ヲ然メ 平家ノ陣へ追入」(源平盛衰記)
1183年(寿永2年)の倶利伽羅峠の戦いで、木曽義仲による4〜500頭の牛の角に松明を付けた夜襲によって平維盛(1158-1184?)が敗れた際に斎明は生け捕られ、処刑されました。
平家はこの戦いに敗れたことで力を大きく失い、都落ちから西国へと下り、そして壇ノ浦での平家の滅亡へと繋がっていきます。
「横道なれども いざや當國に聽えたる 平泉寺を拜まん」(義經記【平泉寺御見物の事】)
1185年(文治元年)に壇ノ浦で平家が滅亡した後、異母兄の源頼朝と対立した源義経(1159-1189)は、1186年(文治2年)に正妻の北の方(郷御前, 1168-1189)と弁慶(?-1189)、そしてわずかな家来を引き連れ、京を離れて奥州平泉の藤原秀衡(?-1187)のもとへと落ち延びていきます。
奥州平泉へ向かう道中で、義経が「本来の道から外れるが、さあ越前国に名高い平泉寺を拝みに行こう」と仰ったため、一行は理解に困ったがその命に従って、雨風の中をもの寂しく夢の中を歩くような心地で平泉寺へ向かいました。
真夜中の平泉寺に到着しますが、鎌倉に追われている源義経ではないかと疑う平泉寺の僧兵300人余が、義経と一行のもとに一斉に押し寄せました。
僧兵たちは山伏と稚児の姿に身をやつした義経と一行を怪しみますが、弁慶の弁明と機転、そして北の方の琴に合わせて義経が奏でた見事な笛の合奏に僧たちはみな感嘆したことで、一触即発だった場が和み、義経と一行は危地を脱することができました。
しばらくの後に、平泉寺を統括する長吏から菓子や酒が差し入れられたことで義経と一行は浮き立ちますが、気を緩めない弁慶は酒に酔って本性を見破られることを恐れたため、それらを長吏のもとへ返しました。
希有な山伏たちだと感心した長吏は、代わりに僧膳を急いで用意して届けました。
夜が明けてから出立した義経と一行は、僧たちに見送られ、恐ろしい所と思われた平泉寺でしたが、鰐(わに)の口から逃れた心地がして足早に雪が残る道を通り過ぎたのでした。

「朝倉式部大輔百餘騎ヲ引率メ六坊ヘ推寄テ鯨波ヲ啼トツクリ鐵炮ヲシキリニ放チ懸ケ御運命ハ是マテ也急キ御腹召レ候へト申ケレハ義景ニクキ景鏡カ働キ哉我只今相果ツト云…」(朝倉始末記【於大野義景生害被成事】)
1573年(天正元年)に、織田信長(1534-1582)は越前国を支配していた朝倉義景(1533-1573)を一乗谷城の戦いで破り、敗走した朝倉義景は織田方に寝返った従兄弟の朝倉景鏡(1529-1574)に追い込まれ自刃を遂げたことで、越前国は織田領国となりました。
1574年(天正2年)に、織田信長と対立していた浄土真宗本願寺派の総本山である大坂本願寺(石山本願寺)の顕如(1543-1592)は、加賀越前の浄土真宗の一向衆門徒に織田方となった旧朝倉勢力の排除を命じて、越前国の支配を画策しました。
一向一揆勢の標的にされた土橋信鏡(朝倉景鏡)は、居城の亥山城(土橋城)を攻められた際に脱出して平泉寺に立て籠もり一向一揆勢の攻撃をしのぎました。
「村岡山ヲ寺門ヨリ取テ城ニ拵ラヘ持ナラハ此山中ノ田畠悉ク荒レ田ト成ルヘシ左樣ナラハ山中ノ難義成…七山家ノ者共夜中ニ堀柵亂株逆木ヲ結ヒ小堀ヲ堀テソ楯籠リケル…然處ニ平泉寺ノ足輕衆徒未明ニ打出テ見レハ村岡山ニ柵木ヲ結テ軍兵有ト覺テ…」(朝倉始末記【平泉寺ヲ一揆攻落事】)
地元勢力の七山家(ななやまが)の一向一揆勢は、独立丘陵で標高301mの村岡山(むろこやま)が平泉寺によって城が築かれると付近の田畑が荒らされてしまうことを懸念し、夜中に堀や柵などを作って一夜で村岡山に城を築きました。
早朝に城塞化された村岡山を目撃した平泉寺の衆徒は驚き、村岡山から一向一揆勢を追い払うために衆徒と土橋信鏡の軍勢の八千三百人余りで村岡山を息をつく間もなく攻めかかりました。
「平泉寺ヘソ驅寄セケル爾程ニ寺門ノ勢共是ヲミテ北島コソ寺內へ攻入レ院內ヲ放火セラレテハ大事也ト思テ足々ニ成處ニ加案寺中ヘ敵スキマモナク打入テ放火スレハ魔風吹散リ諸堂諸坊ニ懸テ焰火有頂天マテ燒上テ村岡山へ寄手寺衆是ヲ見ラ急キ引返シ寺內へ入ント退ヲミテ城中ヨリ切テ出追懸討殺ト云へ…」(朝倉始末記【平泉寺ヲ一揆攻落事】)
平泉寺の衆徒と土橋信鏡の軍勢が村岡山の城を攻撃しますが、石弓や筒突(火縄銃)を放ち、ひっきりなしに鉄砲を打ち出すなど村岡山に立て籠もる一向一揆勢の抵抗はすさまじく、平泉寺勢は多数の死傷者を出し撃退されてしまいました。
奮戦の末、平泉寺勢に勝利した一向一揆勢が村岡山を「勝ち山(かちやま)」と呼んだことが、現在の勝山(かつやま)の地名に繋がったとされています。
村岡山の一向一揆勢のもとに駆けつけた七百余人の援軍は、村岡山に向かわずに手薄になっていた平泉寺に直接攻め入り火を放ちました。
強風が火を煽り、諸堂や僧坊に燃え移った炎は天高くまで燃え上がりました。
炎上する平泉寺を村岡山で目にした平泉寺の衆徒は急いで寺に戻ろうとしましたが、その動きを察した一向一揆勢は城を出て追撃しました。
日頃は鬼神のようだと称された平泉寺の衆徒は、反撃もできずに敗走し、ことごとく討たれて全滅したと言い、平泉寺勢とともに戦った土橋信鏡はもうこれまでと覚悟し、わずか三騎で一向一揆勢に突入して討ち死にしたと伝わっています。
その後、勢いを増した一向一揆勢は、曹洞宗の大本山である永平寺など本願寺派ではない寺社の焼き討ちや織田方の城を攻撃したことで、織田領国だった越前国は一向一揆勢が支配する本願寺領国となりますが、1575年(天正3年)に大軍を率いて越前国へ侵攻した織田信長によって一向一揆勢は徹底的に討ち滅ぼされました。

「禁制 一 当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事 一 放火之事 一 還住百姓成煩事 付小屋壊取事」(天正十一年四月日 筑前守)
1574年(天正2年)に灰燼に帰した平泉寺は、1583年(天正11年)に美濃へ逃れていた顕海(?-1589)が戻って玄成院を興したことで平泉寺再興への道筋が示され、同年には羽柴秀吉(1536-1598)が平泉寺に対する乱暴狼藉や放火などを禁じる禁制札を出して保護しました。
再興された平泉寺の規模は最盛期の一割程度であり、僧坊など焼失した大部分は土に埋もれてしまいました。
1631年(寛永8年)に徳川将軍家の菩提所である天台宗の関東総本山である寛永寺の末寺となり、1795年(寛政7年)には第12代福井藩主の松平重富(1749-1809)によって本社が造営されました。
本社は三十三年に一度、1828年(文政11年)から始まった御開帳が現代でも行われ、扉の奥に祀られた御神体の像である河上御前の姿を拝むことができます。
河上御前とは泰澄を白山へ導いた白山神が化身した貴女のことで、室町時代に制作された河上御前の像は一向一揆勢による平泉寺の焼き討ちの際には、衆徒によって焼失を免れたと言います。
「一 仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ以来相改可申候事 附本地抔ト唱ヘ仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口梵鐘仏具等之類差置候分ハ早々取除キ可申事」(太政官布告第百九十六号)
明治政府は神道の国教化政策を進めるため、1868年(慶應4年 / 明治元年)に神道と仏教を明確に分ける神仏分離令を発したことで、寺院は廃寺になるか、仏教的な要素を排除した神社に転換するかの選択を迫られることになります。
1870年(明治3年)に平泉寺の寺領がすべて没収され、本社や拝殿、鳥居などは残して仏堂や仏具は破棄され、平泉寺の寺号を廃し白山神社となります。
また、平泉寺玄成院の第21世院主であった義章は還俗(僧籍を離れて俗人に還ること)し平泉須賀波と改名して神官となり、白山神社の初代宮司を務めました。
1935年(昭和10年)に白山神社境内の約14.6haが「白山平泉寺城跡」として国指定史跡となり、1997年(平成9年)には周辺部を含めて約200haに拡大されて、「白山平泉寺旧境内」と名称変更されました。
1989年(平成元年)から平泉寺の全体像の確認や坊院跡の調査が始まったことで、発掘された石畳や石垣、土器や陶磁器などの遺物から僧たちのかつての暮らしを垣間見ることができるようになりました。

「かりそめの 雲がくれとは思えども 見えねば暗き 有明の月」(泰澄)
平泉寺白山神社の本社へ向かう石階段の坂からは、魚類の持ち込みが禁止とされ菩提を求め身を清め慎むことから精進坂と呼ばれており、石階段を上がった少し先の森がぽっかりと空いた所に「一の鳥居」が立っています。
一礼して一の鳥居をくぐった先は、奥の方まで真っすぐに伸びた参道に、空と地を緑で覆うように両側を背の高い杉木立と苔が参道に沿ってずっと続いており、この光景には思わず見入ってしまいます。
森閑とした参道をしばらく歩いていくと、左手の奥に池が見つかります。
この御手洗池(みたらしのいけ)は、泰澄を白山の山頂へと導くために白山神が化身した貴女が降臨した池と伝わっており、かつては平泉寺の由来となった平清水または平泉と呼ばれていました。
池の中央には貴女が降り立った影向岩(ようごいわ)があり、もし突如として貴女が降臨したとしてもすべてを疑いなく受け入れてしまうような神秘的な雰囲気が御手洗池には漂っています。

御手洗池から参道に戻って少し歩くと、一の鳥居とは趣が異なる両部鳥居が現れてきます。
二の鳥居と呼ばれ、中央に掲げられている額には白山三峰の神を表している「白山三所大権現」と書かれており、額を護る屋根が付いているのが特徴です。
二の鳥居を通して姿が見えるのが「中宮平泉寺」の額が掲げられた拝殿、その奥には昇り龍と降り龍が軒を支える白木造りの本社があり、白山の一峰で御前峰の神である伊弉諾尊(いざなみのみこと, 白山妙理権現)を祀っています。
1574年(天正2年)に焼失する以前の拝殿は、現在のこぢんまりとした拝殿とは異なり、幅が四十六間(約83m)もあったと言われており、平泉寺が隆盛を極めた頃の姿はどれほどのものだったのかと、焼失前の全盛時の様相が描かれた絵図である「中宮白山平泉寺境内図」を眺めながら、見回してしまいます。
何よりも目を奪われるのが、拝殿と本社が建つ一帯に、黄緑色の苔が一面に広がっていることです。
明け方までしとしとと雨が降っていたことで、しっとりとした深い色合いの世界が生まれ、その清澄な空気に包まれると身体の奥底から緊張が和らぎ、鼓動が安まったことで時の流れが緩やかになっていくのを感じます。

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「往時北陸第一の巨刹にして寺領永九万貫、社祠四十八、堂字三十六を有し寺院六千坊を支配せしが天正二年門徒一揆の兵火に罹りて烏有に歸せし…」
平泉寺白山神社から南に少し離れた南谷三千六百坊跡には、石畳道に面して坊院の門と土塀が復元されています。
坊院は山石を使った石垣で囲まれ、その上には土塀が立てられており、南側を流れる女神川(おながみがわ)から運んだ川石を敷き詰めた石畳道には並行して排水溝を設けたりと、高度な石の技術を用いて平泉寺の町づくりをしていたことが分かっています。
坊院跡からは、茶臼や茶壺、茶入れなど茶に関する道具が出土していることから、茶臼で粉末にした茶を椀に入れて湯を注ぎ、茶筅で攪拌して茶を飲んでいたことや、包丁やまな板などの調理器具や火鉢などから僧たちの日々の生活ぶりが伺えると言います。
他には中国製の青磁や白磁の椀や皿なども出土していることから、外部との交流が活発だったと考えられています。
最盛期の平泉寺には八千人ほどの僧が生活していたといい、石組みの井戸跡が残り10名ほどが生活していた一つの坊院跡に立っていると、1574年(天正2年)の火災と混乱によって平泉寺の数多くの坊院と僧が一夜で消え去った事実に理解がすぐには追いつきません。

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平泉寺白山神社の一番好きな場所はどこですかと伺ったら、どの場所も好きだけど、杉木立の隙間から朝の太陽が光を射して参道を照らし苔が輝く時だと、参道を掃くホウキを手にしながら答えてくれました。
また、平泉寺白山神社を訪れた参拝者が何気なく眺めている一面の苔のどこかに落ちた葉を拾ったり、余計な草が生えていたら抜いたりと日々美しさを感じてもらえるように活動していることや、最近は周辺の人口減少や高齢化によって境内と苔をきれいに保つためのボランティアの方が減ってきていることなど、結婚を機に勝山に移り住んで長くなるが、今では周囲を取り巻く環境がずいぶんと変わり心配だけど、この活動をずっと続けていきたいと笑って語ってくれました。
参拝はもう終えたけれども、心残りがあって参道をあらためて歩いていると、雲の切れ間から太陽が射し込んできて、ああこの瞬間のことなんだ…と深く感じ入りました。
写真・文 / ミゾグチ ジュン









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勝山市西部の岩屋川が流れる山間に、泰澄によって創建され、如意輪観音・十一面観音・正観音の三体を祀った鈴厳寺(れいがんじ)の跡地に建てられた「岩屋観音」があります。
岩屋の大杉(子持ち杉)と呼ばれる樹齢五百年を超える巨木がそびえ立ち、その奇怪な姿は訪れる人々を驚かせています。



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勝山市南東部に、1522年(大永2年)に創建され、武甕槌命および伊弉冊尊を祀る「大矢谷白山神社(おおやだにはくさんじんじゃ)」があります。
ここでは、巨大な岩が転がり覆い被さったような、圧倒される姿を目の当たりにします。
岩塊は、凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)と呼ばれ、火砕流などで形成される岩石です。
勝山市東部にある経ヶ岳(きょうがたけ)の不安定な部分(火砕流堆積物、溶岩、火山灰など)が大崩壊する「山体崩壊」を起こしたことで、崩れた土砂が斜面を流れ下る「岩屑なだれ」によって生み出された光景だと言います。
創建されるよりも以前に、高さが約23mあるこの岩塊の岩陰で泰澄が宿泊したと伝わっています。


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「ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越の大徳泰澄が行力で、竜神をその夜叉ヶ池に封込んだ。竜神の言うには、人の溺れ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。」(泉鏡花「夜叉ヶ池」)
今から約1億2000万年前の中生代白亜紀の時代、現在の勝山市がまだ日本列島ではなくアジア大陸の東端にあった頃、さまざまな恐竜が生息していたと言われています。
1989年(昭和64年)から始まった勝山市での発掘調査によって、肉食恐竜の「フクイラプトル・キタダニエンシス」や草食恐竜の「フクイティタン・ニッポネンシス」といった「福井(フクイ)」を冠した恐竜の化石などが多く発見されています。
勝山市を流れる九頭竜川(くずりゅうがわ)の名は、889年(寛平元年)に川に現れた一身九頭の竜から「黒龍川」となり時を経て、または「崩川」から時を経て変化して九頭竜川になったなどの諸説を由来としています。
九頭竜川の浸食作用と堆積作用の繰り返しと土地の隆起によって階段状の地形である河岸段丘が形成され、その特徴を生かして上位の段丘面には城や武家屋敷、段丘崖に川石を積んだ七里壁(しちりかべ)を境にして下位の段丘面には寺社や町屋、河川に近い微高地には集落や耕地といった具合に勝山城や勝山藩の城下町が作られました。
また、上位の段丘面にある河川や雨水が伏流水となって下位の段丘面の随所で水が湧き出していたことから、飲み水として、または炊事や洗濯などの生活用水、時には夏季に野菜や果物を冷やすなど、昭和30年代まで湧き水(清水)を勝山に住む人々は日常的に活用していたと言います。
勝山の町が開発されたことで数多くの湧き水は枯渇していき、現在では大清水(おおしょうず)と呼ぶ湧き水の一カ所を残すだけとなっています。








