「木曽の桟(かけはし)、太田の渡し、碓氷峠(うすいとうげ)がなくばよい」
江戸時代の五街道のひとつ『中山道(江戸の日本橋~信濃~美濃~大津~京三条大橋:135里32丁【約534km】)』には67の宿場町と3つの難所があり、美濃(現:岐阜)の太田宿(江戸から51番目)近くには流れが速く川幅の広い『木曽川』を渡るための難所『太田の渡し』があります。
当時の木曽川は雨が降り続くことによる氾濫が多く、多少の雨でもその流れが速まり渡船による川越えは相当難儀したようです。
「住み馴れし 都路(みやこじ)出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路(あずまじ)のたび」
1861年10月の幕末期、公武合体の下で16歳の皇女『和宮』が同い年の14代将軍『徳川家茂』に輿入れの際に、長さ50kmにもなった2万人の行列とともに中山道を通り、太田宿より木曽川越え(太田の渡し)が行われました。
2万人もの行列が順繰りにこの川を渡った光景ははたしてどのようだったのか、そんな尋常でない場面を想像しながら、木曽川の川辺を太田宿から渡し場まで川の流れと中洲の形や草などの冬の川景色を楽しみながらのんびりと歩いてみるのもよいです。
皇女『和宮』の道中の不安と江戸での慣れない暮らし、天璋院篤姫との嫁姑問題、大坂での家茂の死、江戸城の無血開城、幕府が滅んだ以降から脚気を患い32歳で世を去るまでの波乱の人生をあらためて知る機会となりました。
中山道の歴史とともにあった『太田の渡し』は、1927年(昭和2年)の『太田橋』の完成とともに渡船は廃止されてしまいました。
車が往来する橋がかかる現代の『太田の渡し』。
皇女『和宮』が川を船で渡った当時と比べたらその風景はずいぶんと変わったけれど、その橋のたもとに残る石畳から木曽川を眺めていると、その時代の幾多の人たちが向こう岸への船を待って佇んでいる際に漂ったであろう川辺の匂いとこの時期の日の暖かさは今も変わらず同じかもしれない…
まだそんな思いをはせる浪漫好きな人によって、これからも名所『太田の渡し』が続いていくように感じます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン