「とろをとめ 安倍をとこらが 歌垣の うた聲にまじる 遠つ汐さゐ」(佐佐木信綱)
今よりおよそ2000年前の弥生時代後期の集落と推定され、水田跡や住居などの遺構に加え数々の木製道具や土器が発見された『登呂遺跡(とろいせき)』。
第二次世界大戦の最中である1943年(昭和18年)に、住友軽金属の航空機用プロペラ製造所を建設する工事の際、水田地帯の深さ1mから多量の木製品や水田跡と考えられる杭列が発見されました。
東西約250mと南北約400mにわたって約8haにもおよぶ弥生時代の水田跡と住居跡が確認されたのは日本では初めてのことであり、その重要性が認められて学術的な調査が行われ、倉庫跡と思われる八本柱の高床建築跡や丸木舟と櫂、田下駄・琴などの木製品や石器・動植物遺物などが数多く発見されました。
しかしながら、戦時による社会状況が悪くなり20日間ほどで発掘調査を中断せざるを得なく、敗戦間近の1945年(昭和20年)にはB29爆撃機による爆撃で遺構などが直接被害を受けて大穴が空いてしまいます。
6月20日にはB29爆撃機137機(123機とも)による「静岡大空襲」で、駿府城内の図書館や講堂などに所蔵していた調査の記録や発掘された遺物のほとんどが失われてしまいました。
「静岡大空襲」は、3時間余りの爆撃で焼夷弾13211発・死者1952名余・負傷者5000名余・焼失戸数は26891戸にあがりました。
戦争の終結から間もなくして、1947年(昭和22年)3月22日に「静岡市登呂遺跡調査会」が発足し、考古学・人類学・地質学・動植物学・建築学・農業経済学などのさまざまな分野の学者30余名が加わった日本で初めての総合的な発掘調査と研究が行われることになりました。
この発掘調査には、最低20万円の資金を集める必要があり、文部省から研究費として5万円、静岡県知事と市長から各5万円、残りを寄付金と手持ちの資金で集めることで7月10日に全員が静岡で集結し、12日には遺跡の名称が他案「富士見原原始農耕集落遺跡」との投票の結果、正式に『登呂遺跡』と決まります。
そして、13日の午後一時に2000年前の神秘を探るための鍬入式が行われました。
ここまでに至るのに「静岡市登呂遺跡調査会」が必要とした資金20万円を現在の金額で計算(CPI:消費者物価指数)すると、およそ3000万円になります。
新たな発掘調査で、倉庫の「鼠(ねずみ)返し」、最初の金属として二個の「青銅環」(腕輪)、ガラスの「ビーズ玉」などを発見します。
『登呂遺跡』の発掘調査において、旧制中学や新制高校の生徒が積極的に参加したり、新聞やラジオ・雑誌などで一斉に取り上げられ、学友と共に行啓した「皇太子明仁親王」(現在の明仁上皇)が土器を発見するなど、日本の建国当時の姿を科学的に明らかにするこの発掘調査が、戦争そして敗戦によって混乱・疲弊した国民に対して、復興への大きな希望を与えることになりました。
このような成果が新しい時代の象徴として全国的に注目されることになり、1948年(昭和23年)4月2日に日本最大の考古学研究者の組織「日本考古学協会」の設立へと繋がりました。
1950年(昭和25年)までに第二次から第五次にわたって発掘調査が行われ、『登呂遺跡』埋没の原因を台風による洪水と推定され以後に人間が住んだ形跡がないことが分かり、12軒の住居跡と2棟の倉庫跡と日本で初めてとなる発火器や織機の発見がありました。
1951年(昭和26年)に第1号復元住居が建設され、国から土地(約1.1ha)の払い下げを受けます。
1952年(昭和27年)には国の「特別史跡」に指定され、史跡公園としての整備が進められていきます。
その後も、1965年(昭和40年)に東名高速道路建設に伴う第六次発掘調査、国庫補助事業として1999年(平成11年)から2003年(平成15年)にかけての再発掘調査が行われました。
「安倍川(あべかわ)」と「藁科川(わらしながわ)」が造った扇状地である平野の扇端部、標高6mの微高地に存在した『登呂ムラ』には、推定12軒の住居が建ちおよそ50人から60人が住んでいました。
集落は自衛のための堀「環濠(かんごう)」を持たず、住居は一般的な「竪穴式(たてあなしき)」ではなく、低湿地帯なので水が染み出ないよう地面に穴を掘らずに建てられました。
住民は「織機」を使い「大麻(あさ)」の繊維から布を織り、織布の真ん中に穴をあけて頭を通す「貫頭衣(かんとうい)」と呼ばれる服を着て、装飾には「勾玉(まがたま)」や青いガラスの「ビーズ玉」、腕には「青銅環」(腕輪)をはめていました。
集落の東側にある「祭殿(さいでん)」では、鹿骨製の「卜骨(ぼっこつ)」を用い焼け焦げた跡でもって占い、漆が塗られた「琴」や小さな「土器」を使って儀式をしていました。
集落より1mほど低い南側には、40面から50面ほどの方形に区切られた水田が広がり、南北に導水と排水のための水路が通っており、水路や畦などには杭や矢板が打ち込まれていました。
水田は固い樫の木を削り出して作った「鋤(すき)」や「鍬(くわ)」を用いて耕し、稲の種籾を直接播く「直播栽培」と共に、「田下駄」を履いて苗代で育てた苗を田植えする「移植栽培」も行い、温帯ジャポニカ・熱帯ジャポニカ・雑種などのさまざまな品種の稲が実っていました。
収穫の時には、「石庖丁(いしぼうちょう)」を使い稲穂を刈り取り天日で乾燥させてから、「鼠返し」を備えた2棟の「高床式倉庫」に貯蔵し、脱穀には「竪杵(たてぎね)」や「臼(うす)」を使いました。
稲作だけでなく、石の「鏃(やじり)」を付けた弓でイノシシ・シカなどを狩り、海や川ではタイ・イワシ・ハマグリなど、野山でオニグルミ・モモ・カキなどを採集して食べていました。
『登呂ムラ』は200年ほど営まれ、その間に2度の「安倍川」の氾濫に見舞われました。
1度目の氾濫では住居も含めて水田も復興させて多数の杭と矢板で補強しましたが、2度目の氾濫に遭ってからは水田のみを復興して『登呂ムラ』の集落は別の場所へ移すことになりました。
日本人の祖先そして起源について関心を寄せるきっかけとなり、日本の考古学の発展においても価値ある発見となった『登呂遺跡』。
現代の『特別史跡 登呂遺跡』、およそ2000年前の集落を再現した『登呂ムラ』の周囲には、その2000年後の住居がぐるっと取り囲んでいます。
かつてはその周囲を緑の木々と草花に覆われ、自然からの豊かな恵みと、広大な水田を拓き稲作によって生活していた『登呂ムラ』の人々。
数多の学者が土の中から2000年もの時を超え見つけ出した遺物が、現在の日本人へと繋がる『登呂ムラ』の人々の生活を知る手がかりとなりました。
解明された事、そして多くの分からない事も含め、現代に蘇った『登呂遺跡』の地に立ち、当時とそう変わらないであろう太陽の眩しさを感じれば、繋がるDNAが何かしらの記憶を呼び覚ましてくれるかも知れません。
写真・文 / ミゾグチ ジュン