1853年7月8日、2隻の蒸気船と2隻の帆船が江戸湾の入り口にある「浦賀」に姿を現しました。ペリーの来航は日本の歴史の大きな事件「黒船来航」として現代まで語られています。
愛知県蒲郡市の海岸から約400mに位置し標高は約22~24mで周囲約620~680mの三河湾に浮かぶ小島『竹島(愛知県)』。
「風」は気象的な意味のほか、風を読む、風に訊く、風潮、順風、逆風など世情や状況を表す言葉としても使われます。また風情、風趣、風月、風土といった言葉に表されるように自然と人の結びつきの強さを見ることができます。
正月7日に七草粥を食べる習慣で知られる春の七草。
「せり なづな 五形 はこべら 仏の座 すずな すずしろ これぞ七草」と南北朝時代の四辻左大臣が詠んだ春の七草が主に食用であるのに対し、秋の七草は鑑賞が中心です。
彼岸は二十四節気である春分の日・秋分の日を中心として前後3日間、それぞれ7日間のことをいいます。寒さが和らいでくるのは春分の頃、暑さが抜けて涼しくなってくるのは秋分の頃。彼岸は季節の移ろいの目安となるのです。
澄み切った秋の夜空に燦然と輝く月、十五夜は古からの風習として月見の行事が行われます。旧暦の8月15日の夜、お供え物をして月を愛でる月見行事は、十五夜、仲秋の名月と呼ばれます。
75.32年周期で地球に接近する短周期彗星、後の「ハレー彗星」について予言した「エドモンド・ハレー」が、1692年に「イギリス学士院」で地球には3つの空洞があると発表した「地球空洞説」。
時折、雨が降る日に森を彷徨いたくなります。
薄暗い林道を歩いていると聞こえてくる「雨の音」、木々の葉や落ち葉の積もる地面、そして手にする傘に落ちる雨粒を聞きながら、人魂のようにふらふらと漂いながら森の奥へ奥へと導かれていきます。
ローマ帝国時代に本国以外の領土を指す属州を意味する「プロウィンキア」が語源となり、帝国終焉以降は「フランク王国」の勢力下から「プロヴァンス伯領」を経て、1482年に「フランス王国」の州の一つとして併合、「フランス革命」の際に州が廃止された以後も南フランスの南東に広がる地方の名称として呼ばれる『プロヴァンス』。
長野県の南端、標高3120mの「赤石岳」に「聖岳」や「兎岳」が連なる「赤石山脈」の西麓から「伊那山地」の東面傾斜地に挟まれた山間の渓谷一帯の秘境『遠山郷』、そして林業の隆盛と共に118年を歩み約2000人の卒業生を輩出し廃校となった『木沢小学校』。
しとしとと雨が降る或日、ベランダに置かれた柱サボテンの鉢に小さな梅雨茸が育っているのを見つけた。
「梅雨茸」は、梅雨の頃に生える食用にならないきのこ類の総称で夏の季語でもあります。
陰鬱な梅雨を表現していますが、思いがけず目にしたら嬉しいモノです。
愛知県南東部、東西約50kmに延びる「渥美半島」の西端に位置し、タカ・ヒヨドリなど志摩半島を目指す多くの渡り鳥の中継地でもある『伊良湖岬』、そして神域「宮山原始林」を有する丘陵を背にし、太平洋「遠州灘」に面する長さ約1kmの湾曲した砂浜『恋路ヶ浜』。
今よりおよそ2000年前の弥生時代後期の集落と推定され、水田跡や住居などの遺構に加え数々の木製道具や土器が発見された『登呂遺跡』。
第二次世界大戦の最中である1943年に、水田地帯の深さ1mから多量の木製品や水田跡と考えられる杭列が発見されました。
明治維新後の『秩禄処分』により生活に困窮した旧萩藩士を救済し、後の主要な産業となり萩の経済を支えることになった本来の名称を『夏橙(ナツダイダイ)』と言う、萩の特産物『夏みかん(夏蜜柑)』。
第40代『天武天皇』の時代に『役小角』が「阿弥陀如来」を本尊とした「阿弥陀寺」を建立し、この地を訪れた『空海』が一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈り、第72代『白河天皇』の皇室繁栄を祈願する「勅願寺」として『鶴林山大御堂寺』と称された通称『野間大坊』。
木曽八景の一つ『寝覚の夜雨』と称えられ、木曽川の激流によって「花崗岩」が永い年月をかけて浸食されてできた自然地形であり「史跡名勝天然記念物」に指定された『寝覚の床』。