1587年に、若狭国を豊臣秀吉より与えられ小浜城8万石の城主となった『浅野長政』は、熊川の地を軍事と交通の重要拠点として認め、1589年に夫役・軍役や本年貢以外の租税を免除した『諸役免除』の判物を熊川の地に与えたことで宿場町として発展した『熊川宿』。
敦賀湾の最奥に面し長さ約1.5km・広さ40万平方メートル、アカマツ(約8000本)を優占にクロマツ(約5000本)など約17000本の樹木が生い茂り、『三保の松原(静岡)』・『虹の松原(佐賀)』と並び称される白砂青松の名勝『気比の松原』。
標高432mの『高森山』、木曽川から山頂までの高度差約170mの地に築かれた山城『苗木城』。
鎌倉時代より美濃国恵那郡を中心に『遠山七家』(岩村・明知・苗木・飯羽間・串原・明照・安木)が治め、そのうち苗木の遠山氏が木曽川以北と加茂郡の東部を支配していました。
1783年8月5日(天明3年7月8日)に、群馬県と長野県にまたがってそびえる標高2568mの『浅間山』が大噴火を起こし、その際に発生した火砕流によって火口から北12km離れた宿場・鎌原村を飲み込んだ『天明の大噴火』。
5世紀後半~6世紀初頭に『榛名山』の麓に築造され墳丘の長さがおよそ100mある『井出二子山古墳』・『八幡塚古墳』・『薬師塚古墳』の3基の前方後円墳で構成された『保渡田古墳群』。
1616年に駿府で没し久能山に葬られた江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化し、1617年に日光の奥院廟塔に改葬され『東照大権現』として祀った神社『東照宮』。
水戸藩9代当主『徳川斉昭』によって、中国の古典「孟子」の「古之人與民偕樂、故能樂也」から、「衆と偕に楽しむ」と想いを込められ1842年に開園された日本三名園の一つ『偕楽園』。
火山灰や砂礫が海底に堆積し凝結した「凝灰岩」で正式名は「流紋岩質溶結凝灰岩」、日本列島のほとんどが海に沈んでいた時代の新生代新第三紀中新世に自然に形成された大谷地域のみで産出される有限の石材である『大谷石』。
『古事記』と『日本書紀』には、御諸山、 美和山、三諸岳と記され、蛇神・大物主大神が鎮まる標高467mの『三輪山』。
三輪山に生える一木一草に神が宿っており、山全体が御神体となっています。
京都・嵯峨で生まれ、第100代天皇・後小松天皇の落胤と伝えられる室町時代の僧『一休宗純』。
6歳で京都の『臨済宗 安国寺』にて出家し『周建』と名付けられ、15歳の頃には詩人として洛中で評判となりました。17歳で西金寺に入り謙翁宗為に師事し戒名を『宗純』と改めます。
創設は平安時代とも鎌倉時代とも言われ、江戸時代を経て明治5年まで存続した『足利学校』。
室町前期には衰退していたが、1432年に『上杉憲実』が足利の領主となり自身の蔵書を寄贈し、鎌倉・円覚寺の僧『快元』を庠主として、儒学を中心に兵学・易学・医学を教える学校へと再興しました。
瀬戸内海西部に広がる海域「伊予灘」に面し、かつては「日本一海に近い駅」と呼ばれた四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である『下灘駅』。
愛媛県の南部、狭い湾が複雑に入り込んだリアス式の海岸線を持つ「宇和海」に面した西海半島の北西部に位置し、ひな壇状に石垣を積んだ集落で現在では「石垣の里」とも呼ばれる『外泊』。
まだすべての雪が溶け切らない頃、新たな生命が芽吹き始めた『戸隠神社』・奥社への参道。
江戸時代に徳川家康より朱印高千石を拝領され、1612年頃から参道や境内に植樹された杉は樹齢400年にもなり、500mほど続くその威風堂々たる杉並木は参詣者に対して荘厳な景色を魅せてくれます。
自然石をそのまま積んだ『野面積み』の美しく壮麗な石垣に囲まれ、往時の建物を残さない広々とした空地を持つ『松坂城跡』。
城内の木漏れ日の下を石垣を伝い歩いてみると眼下に繁栄したかつての城下町を眺めることができます。
高遠城址の桜は、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊された城跡の荒廃を嘆いた旧藩士たちが、高遠藩の縁ある馬場の桜を植えたことが始まりとなり、今日では「天下第一の桜」と謳われる桜の名所となりました。