『古事記』と『日本書紀』には、御諸山、 美和山、三諸岳と記され、蛇神・大物主大神が鎮まる標高467mの『三輪山』。
三輪山に生える一木一草に神が宿っており、山全体が御神体となっています。
京都・嵯峨で生まれ、第100代天皇・後小松天皇の落胤と伝えられる室町時代の僧『一休宗純』。
6歳で京都の『臨済宗 安国寺』にて出家し『周建』と名付けられ、15歳の頃には詩人として洛中で評判となりました。17歳で西金寺に入り謙翁宗為に師事し戒名を『宗純』と改めます。
創設は平安時代とも鎌倉時代とも言われ、江戸時代を経て明治5年まで存続した『足利学校』。
室町前期には衰退していたが、1432年に『上杉憲実』が足利の領主となり自身の蔵書を寄贈し、鎌倉・円覚寺の僧『快元』を庠主として、儒学を中心に兵学・易学・医学を教える学校へと再興しました。
瀬戸内海西部に広がる海域「伊予灘」に面し、かつては「日本一海に近い駅」と呼ばれた四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である『下灘駅』。
愛媛県の南部、狭い湾が複雑に入り込んだリアス式の海岸線を持つ「宇和海」に面した西海半島の北西部に位置し、ひな壇状に石垣を積んだ集落で現在では「石垣の里」とも呼ばれる『外泊』。
まだすべての雪が溶け切らない頃、新たな生命が芽吹き始めた『戸隠神社』・奥社への参道。
江戸時代に徳川家康より朱印高千石を拝領され、1612年頃から参道や境内に植樹された杉は樹齢400年にもなり、500mほど続くその威風堂々たる杉並木は参詣者に対して荘厳な景色を魅せてくれます。
自然石をそのまま積んだ『野面積み』の美しく壮麗な石垣に囲まれ、往時の建物を残さない広々とした空地を持つ『松坂城跡』。
城内の木漏れ日の下を石垣を伝い歩いてみると眼下に繁栄したかつての城下町を眺めることができます。
高遠城址の桜は、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊された城跡の荒廃を嘆いた旧藩士たちが、高遠藩の縁ある馬場の桜を植えたことが始まりとなり、今日では「天下第一の桜」と謳われる桜の名所となりました。
海風から陸風へ。日の傾きに応じて現れる海辺の光と影。夏の賑わいから、誰もいない冬の砂浜。波音が哀愁を醸し、夕日が当たりきらきらした海をぼんやりと眺める白砂青松・百選の地『鼓ケ浦海岸』は、いつもより透明に波立ちます。
江戸時代の五街道のひとつ『中山道(江戸の日本橋~信濃~美濃~大津~京三条大橋:135里32丁)』には67の宿場町と3つの難所があり、美濃の太田宿の近くには流れが速く川幅の広い『木曽川』を渡るための難所『太田の渡し』があります。
千百余年前の862年に天台宗の慈覚大師によって開かれた地蔵菩薩を本尊とする霊場「恐山」。
カルデラ湖の宇曽利湖を中心とした釜臥山など8つの外輪山の総称です。
照らす太陽の熱さ、巻き上がる土の埃、行き交う人の匂い。
この場所、Indiaで出会う人々。