「御嶽山」を御神体に信仰する「御嶽信仰」の行者にとって水行の場であり、木曽八景の一つ『小野瀑布』と称えられ、標高1699mの「風越山」を背にした落差20mの直瀑『小野の滝』。
太平洋からの波による浸食で海食崖に形成された高さ約5m・幅は4mほどの広さで、全長は約40mの天然の「海蝕洞」である『伊尾木洞』。
『伊尾木洞』の壁は、かつての土佐湾に生息した貝などを含んだ砂や泥からなる地層です。
信濃三十三観音霊場の第二十九番札所であり、第45代『聖武天皇』の勅命によって724年に『行基』が創建したと伝わる『布引観音』とも呼ばれる天台宗『布引山釈尊寺』。
1871年の『廃藩置県』以後の『小諸城』跡地を旧小諸藩士たちが整備し、1926年に造園家『本多静六)』が提案した『小諸公園設計案』を元に、近代的な都市公園として誕生した『小諸城址 懐古園』。
「菅笠」が三つ重なった形をしていることから別名『三笠山』とも呼ばれ、標高342m・面積33haの一面を芝に覆われた『若草山』。
『若草山』を覆うイネ科シバ属の『ノシバ(野芝)』は、その周辺の「固有種」であり餌付けされていない野生の『奈良の鹿』と1000年以上の時を一緒に歩むことで、もう互いに離れられない関係を築いてきました。
かつての飛騨河合村と白川村の境に位置する標高1289mの峠であり、年の半分は雪で閉ざされる『天生峠』。
『天生峠』の一帯はブナの原生林、カツラなどの渓畔林、8種類のカエデやナナカマド、ミズバショウが群生する高層湿原、「春の妖精」と呼ばれるニリンソウ・サンカヨウなどの亜高山帯植物が息づき自然界の美しき深淵の一端を覗き見ることができます。
標高1038mの『倶留尊山』と、亀の背に似た標高849mの『亀山』を結ぶ西斜面から麓に広がる標高700m・約38haの『曽爾高原』。
『曽爾高原』では、陽を浴び銀色に輝くススキが風に吹かれ草原に揺らぎ、夕刻には夕日を浴び黄金色に輝き日中とは違った景観を楽しむことができます。
標高908.3mの『笙ヶ岳』を主峰に、南部に標高403mの『多度山』、北部に標高859mの『養老山』が連なる『養老山地』の北東に位置する、落差32mの直瀑『養老の滝』。
標高17mの独立丘陵上に築かれた平山城である『丸岡城』。
1573年の『織田信長』による『朝倉家』滅亡後の動乱の中、1574年に浄土真宗本願寺教団の信徒が引き起こした『一向一揆』の拠点となってしまった天台宗の寺院『豊原寺』は、1575年に越前に侵攻した『織田信長』によって、僧坊が建ち並び『豊原三千坊』と言われた『豊原寺』のすべてが焼き払われてしまいます。
『金比羅山』の通称を持つ標高524mの『琴平山』と、隣り合う象の頭に似ている標高538mの『象頭山』とを合わせた総称『象頭山』の中腹に鎮座し『こんぴらさん』とも呼ばれ親しまれる『金刀比羅宮』。
江戸時代の城の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの山内の険しい地形を利用した800年余りの歴史を持つ山城『岩村城』。
鎌倉時代に『遠山景朝』が築き、戦国時代に入り織田・武田の両家の抗争が激しくなってきた頃に本格的に山城として構築されていきます。
太平洋に突き出す足摺半島、標高433mの『白皇山 』を中心に花崗岩大地が隆起と沈降を繰り返してでき、一帯は三段の海成段丘が発達した高さ80mほどの海食崖をなす四国最南端の岬である『足摺岬』。
日本海に突き出た、およそ1200万年前に噴出した溶岩が冷えて固まった巨大な輝石安山岩であり『柱状節理』の海食崖で、最大約25mの高さの断崖絶壁を形成し国の天然記念物に指定されている『東尋坊』。
標高354mの『八幡山』に築かれた山城『郡上八幡城』。
鎌倉時代の頃から郡上一帯は、標高523mの『篠脇山』に築いた『篠脇城』を居城にした『東氏』が治めていました。
およそ1200万年前に噴出した溶岩が冷えて固まった輝石安山岩でできた丘陵性台地は標高27m、面積は約10.2ヘクタール、周囲2.0キロは海食崖である越前海岸の島の一つ『雄島』。
標高約495mの『小谷山』一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用し築かれた山城『小谷城』。
『小谷城』の築城は、『淺井亮政』によって1516年とも1523年とも言われており、山頂に築かれた支城・大嶽とその南方に伸びる尾根筋に構えた本丸・大広間など、そして谷筋に構えられた淺井一族と家臣の屋敷などが『小谷山』に築かれました。